安倍晋三氏のルーツ『安倍貞任・安倍宗任』とはどんな人物だったのか

安倍貞任 安倍宗任とはどんな人物 安倍晋三のルーツ

東北の、かつての奥六郡(岩手県中南部)を支配していた豪族『安倍氏』が、元内閣総理大臣の安倍晋三氏のルーツにあたるというのは、わりと知られているようです。

なぜなら、安倍晋三氏も安倍宗任の末裔42代目と称しておりました。

そして安倍晋三氏の父・安倍晋太郎氏(そっくり)も自認しておりました。

安倍貞任は、岩手県内にたくさんの伝説や地名が残っていることから、郷土のスーパースターだったということがわかります。

しかし安倍一族がどのような人物だったのか、もはやお年寄りの方すらも知らない人がほとんどです。

愛らんど

郷土びいき寄りの解説になってしまいますが、安倍貞任・安倍宗任についてご紹介したいと思います。

目次

安倍貞任とはどんな人物か

安倍貞任(あべのさだとう)とは平安時代中期、奥六郡(岩手県の中南部)を支配してしていた豪族・安倍頼良(あべのよりよし)の次男です。

※安倍頼良はのちに頼時に改名しますが、この記事では頼良のままにしておきます

貞任は厨川の柵(現:岩手県盛岡市前九年付近)を本拠地としていたので、厨川次郎(くりやがわじろう)とも呼ばれていました。

陸奥話記などで、安倍一族を東夷の酋長俘囚と記述されていた為、今でも出自は蝦夷(エミシ)と見られている見解が多いようです。(出自に関しては不明で諸説ありです)

当時は朝廷が陸奥守として国司の役人を多賀城(宮城県多賀城市)に派遣していますが、安倍氏による地域での影響力が強大で半独立政権のような状態でした。

それを良く思わない陸奥守は、藤原登任からはじまり、源頼義らがあらぬ疑いをかけて戦に持ち込んできます。

それが安倍氏が朝敵となった永承6年(1051)からはじまる【前九年合戦】といいます。

安倍頼良の長男は盲目であったので、跡継ぎは次男の貞任となったようです(宗任は三男)

前九年合戦についてはこちらの記事で解説しています

安倍貞任の和歌

東北は京から離れ、安倍氏は和歌の文化など持ち合わせていない蝦夷(エミシ)の一族といったイメージを持たれていましたが、けっこう和歌が得意な一族だったようです。

こんな歌合せの逸話があります。

安倍貞任が衣川柵を放棄して敗走、それを追う源義家。

そのときに、源義家はこう言い放ちます。

衣のたては ほころびにけり(源義家)

訳:糸がほころんで衣がボロボロだぞ!(衣川の館は陥落してあとがないぞ)

馬上から振り向き、安倍貞任はこのように答えます。

年を経し 糸のみだれの くるしさに(安倍貞任)

訳:長い年月の間に律令体制はほころびてしまっている(律令体制は乱れ、多くの民が苦しんでいるから我々は戦っている)

古着じゃないぞ!武士の戦いの意味 ~八幡太郎義家と安倍貞任~YouTubeチャンネル小名木善行さんより

源義家の挑発に、上の句で返す(みやび)な安倍貞任でありました

それを聞いた源義家は安倍貞任を一目置き、追撃するのを止めたそうです。

一般的に貞任が発した和歌は

「年月を経た糸の乱れと同じように、衣川の館も長年の戦には耐えられない」

「長年戦い古くなった衣が乱れ、ほころんでしまうのは仕方ない」といった現代語訳です。

民衆に慕われ武勇と知略があったとされる安倍貞任でも、敗者となれば同情を思わせる風に訳されてしまうのでしょうね。

和歌のくだりは後の創作といわれていますが、源義家の武士道安倍貞任の文化の高さを表現したかったのかもしれません

安倍貞任の容姿

陸奥話記によると、安倍貞任の容姿を以下のように記されています。

  • 身長六尺有余り
  • 腰回り七尺四寸
  • 容貌魁偉
  • 肌は肥白

訳すると、身長180㎝くらいで身体の幅は2.2m。

容貌魁偉とは・・・

姿かたちが堂々として大きく立派なさま。▽「魁偉」は大きくて立派なさま。

goo辞書【容貌魁偉】

肥白とは、肥えていて肌が白いこと。

つまり、

色白で高身長で肉付きが良くガッチリした体格のイケメン!

安倍貞任の容姿は、当時周りから見てそんな印象だったのでしょう。

安倍貞任の子孫

津軽の安東氏

厨川の柵で貞任は討ち死にし、奥六郡の安倍一族は滅亡したとされています。

しかし末裔と名乗る氏族は全国に残っているようです。(現在でも沿岸部特に気仙沼のほうは阿部姓が多い)

中でも有名なのが、貞任の次男『高星丸(たかあきまる)』は厨川の柵から乳母と家臣に守られ津軽へ逃げ延びたといわれています。

後に高星丸は安倍の姓から安東を名乗るようになり、藤崎城(青森県南津軽郡藤崎町)を築き栄えていきました。

安東氏は鎌倉時代になると幕府から蝦夷地(北海道)の物産などの交易権を手に入れ、

日本海側の津軽外三群へ本拠地を移し十三湊を中心に交易活動を展開していったようです。

厨川三郎・安倍貞政

安倍貞任にはもう一人、『松若丸(まつわかまる)』という遺児がいたとされます。

大分の安倍宗任の末裔の安部貞隆氏が語り継ぐ安倍一族の伝承によると

貞任の妾・象形(きさのかた)が、源頼義軍に滅ぼされた年の春に産まれたのが『松若丸(まつわかまる)』という男の子です。

貞任は衣川柵が落ちる時、家臣をつけて象形に「松若丸と逃げ延びるように」言いました。

松若丸は後に投降した安倍宗任と共に伊予国(愛媛県)へ配流されます。

それから安倍宗任は源義家と共に奥州へ戻り、後の『後三年の合戦』に参陣していたようです。

そのときに元服した厨川三郎・安倍貞政(松若丸)も出陣し、後に源義国に仕えて78歳まで生きたそうです。

安倍宗任とはどんな人物か

安倍頼良の三男・安倍宗任(あべのむねとう)が安倍晋三氏の祖先といわれています。

※宗任は安倍貞任とは母親がちがいます

康平5年(1062)奥六郡を統べる『安倍氏』は滅亡してしまいましたが、

安倍貞任の弟の安倍宗任は生き延び、伊予国(愛媛県)へ配流されます。

安倍宗任の末裔は『松浦水軍』となって壇ノ浦の合戦に参戦し、

平家が敗れたあと長門の国先大津後畑(さきおおつうしろばた)の日本海に面した集落に定着し存続していきました。

明治になる前後に、現在の山口県長門市に転居を移したようです。

山口県出身の安倍晋三氏の父親の晋太郎氏は、岩手県奥州市のアラハバキを祀る【磐神社】に訪れるほどでした。

アラハバキは謎の多い神様ですが、安倍一族も、東北にいた蝦夷も信仰していた神様といわれます

安倍宗任の和歌

源義家に一目置かれていたと言われる安倍宗任は、知略に優れた武将だったそうです。

宗任が京に連れていかれたとき、

「奥州の蝦夷は花の名前など知らないだろう」と貴族が梅の花を見せバカにすると、

わが国の 梅の花とは 見つれども 大宮人は いかがいふらむ(安倍宗任)

訳:私の故郷では「梅」と呼んでいる花に見えますが、京の御方はなんと呼んでいる花なのでしょうか

宗任は歌で答え驚かせたという逸話があります。

安倍宗任の末裔の【松浦水軍】とは

安倍宗任の子孫は『源平・壇ノ浦の合戦』のとき、平家側で活躍した『松浦水軍』といわれています。

宗任が伊予国から筑前(北九州)へ配流したのは、寛仁3年(1019)。

その時期、壱岐・対馬・筑前に『刀伊の入寇(高麗の海賊による襲撃)』があった為、その土地の武士では成果が出ず宗任が沿岸部の防衛役として遣わされたという説があるそうです。

その後、宗任の三男:李宗肥前松浦氏娘婿となり、その子孫が『水軍松浦党』を率いるようになったといわれています。

九州には安倍宗任に関する伝承が数多く残っているようです。

まとめ

安倍貞任、安倍宗任がどんな人物だったかについて、陸奥話記や各地の伝承をもとにまとめてみました。

安倍貞任という人物は

  • 和歌の心得がある文化人
  • 高身長でガッチリした体格
    (太めとも)
  • 肌が白く立派な顔だち
  • 子孫は津軽安東氏となる

安倍宗任という人物は

  • 和歌の心得がある文化人
  • 智勇に優れていた
  • 子孫は松浦党として活躍した

岩手県には安倍貞任伝説が、九州には安倍宗任伝説が数多く残っております。

2人とも和歌の心得もあり、武勇や知略に優れた人物でありました。

そして、子孫が偉大な功績を残しているのも共通しています。

安倍宗任の末裔といわれる安倍晋三氏も、【日本を取り戻す】というスローガンを掲げ、

たぐいまれなる外交手腕を発揮し、諸外国と良い関係を築いて活躍しました。

安倍宗任の子孫の松浦党も、【刀伊の入寇】や【元寇】から日本を守りました。

外国と渡り合う能力が高いのは血筋なのかもしれませんね。

愛らんど

安倍晋三氏のおかげで【東北の安倍氏】の知名度が上がったかもしれません。安倍さんありがとうございます(T_T)ご冥福をお祈りいたします。

【参考資料・HP】
・安倍一族21世紀への岩手のビジョン”ニュー安倍みち”
(盛岡タイムス社)
・貞任絵巻(吉川保正氏)
・逆説 前九年合戦史 著者:安部貞隆
((有)ツーワンライフ)
藤崎町HP
・北天の魁-安倍貞任伝- 著者:菊池敬一

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コメント

コメント一覧 (4件)

  • 記事の内容に賛同いたします。安倍一族とルーツを供にした金(コン)と申します。貞任以前からの濃い姻戚関係で繋がっていたようなのですが、一族と一緒に戦った金為行と裏切って源軍に加勢した金為時とどちらに近いのかと長い間悩んでいましたが、最近では年齢のせいか、どちらでも良くなってきました。
    ただ、ご当地に残って金性を名乗り続けていることで裏切り側の公算が強いです。どちらにしても強い東北であり続けたいと思う昨今でございます。

    • コメントありがとうございます。

      金為行と金為時は兄弟説?がありますよね。

      時代はちがいますが、関ケ原の戦いで真田家の兄弟が東西に別れて敵対した
      「犬伏の別れ」のような。
      金一族を存続させるために、苦肉の策だった可能性もありますし。

      ケセン地域にコンさんも阿部さんもたくさんいて血脈は続いていることに感謝ですね★

  • こんばんは
    散歩してたら看板を見つけたので
    立ち寄らせて頂きました🙇

    安倍元総理のご先祖様 ルーツを探る
    安倍元総理のご先祖様 ルーツをずっとずっと
    たどって行くと飛鳥時代まで行くんですね
    これはある方が言ってます
    その方は残念ながら お亡くなりになられたのですが
    知ってる人は知ってる有名な方です
    と話は置いといて

    飛鳥時代に遡ると ある人物が出てきます
    その方は 【阿倍内麻呂】さんです
    この方が安倍元総理のルーツ ご先祖様だそうです
    で面白い話がありまして
    聖徳太子が冠を阿倍内麻呂さんに渡すのですが
    阿倍内麻呂さんは受け取りませんでした
    阿倍内麻呂さんは冠を被らず すくね帽を被ったんです

    すくね帽は藤原不比等が登場するまで
    武内一族しか被れなかったんですね
    面白いですね

    で安倍元総理のルーツが【阿倍内麻呂】さん
    と言った人は誰か
    歴史を知ってる方なら想像出来ると思います

    その方は 旧小倉宮家の末裔で
    古神道本庁代表だった方で第73世武内宿禰こと
    竹内睦泰先生 竹内睦泰先生が言っておられます🙇

    竹内睦泰先生が言ってる動画 13分38秒辺り
    ⬇️⬇️⬇️⬇️
    https://youtu.be/NEN3LjrmFD4

    • こういったコメント頂けて嬉しいです🌸
      youtube見させていただきました。たしかに言ってますね!むっちゃん先生のキャラ最高✨
      左大臣の安倍内麻呂が安倍晋三氏の先祖ですか・・華麗なる一族は大昔からだったのですね!安倍内麻呂の元をさかのぼれば大彦に行き着いたり、後には平安初期の公卿安倍安仁につながってくれば東北の安倍一族からの安倍晋三へ。の説が完成しておもしろいのにな〜

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