マルコ・ポーロの東方見聞録『黄金の国ジパング』というワードは、皆さん誰もが耳にしたことがあると思います。
日本は金の産出国ではありますが、現在は黄金の国と呼べるほど稼働している金鉱山は少ないですし閉山した金鉱山がほとんです。
日本がどうして『黄金の国』と呼ばれたの?
東方見聞録が発行された13世紀からすこしさかのぼる12世紀頃、東北地方で黄金文化と呼ばれていた奥州藤原氏の『平泉王国』がありました。
黄金の象徴として有名なのが世界遺産となった中尊寺金色堂がありますね。
そうです、『黄金の国ジパング』とは昔ゴールドがたくさん採れていた東北の国のことを指している説が有力と言われています。
マルコ・ポーロの東方見聞録とは
マルコ・ポーロ(1254-1324年)とは、イタリア・ヴェニスの貿易商人でモンゴル王朝・元の皇帝フビライ・ハンの側近でした。
マルコはヨーロッパからアジア諸国を旅する冒険家でもあり、様々な国の知識や情報を持っていたのでフビライ・ハンは大変気に入り17年も仕えさせていたようです。
イタリアに帰国後に兵士として戦い、捕虜となります。マルコは牢獄で出会った作家ルスティケロに旅の話をし、彼が聞いた内容をヨーロッパで発行したものが旅行記『東方見聞録』です。
東方見聞録の中で『黄金の国』ジパングを紹介した内容とは、
・東方にある大きな島で大陸から2400キロの距離にある。
・人々は肌が白く文化的で礼儀正しい。偶像を崇拝し、どこにも属せず独立している。
・黄金はいろいろな所で産出し、住民は皆黄金を持っているが国王は流出を防いでいる。
・国王の宮殿の屋根は全て黄金、宮殿内の部屋の床は4センチほどの厚さの金で覆われた板でできていて黄金ずくめである。
他にも、人を食べる習慣があることや火葬をする際に死者の口に真珠を入れる風習などの記述がある。
マルコが中国の貿易相手から聞いたものなので、アジア諸国の多種多様な文化が混ざっている印象を受けます。
奥州藤原氏が源頼朝によって滅ぼされるまで陸奥国は独立国でしたし、偶像崇拝とは大仏像のこと。宮殿はまさに中尊寺金色堂のことで、おおよそ東北を指している記述でした。
平泉が『黄金の国』と呼ばれた理由
歴史上において、東北で金が産出されることが知られるようになったのは奈良時代です。
中央政権による事業、東大寺の大仏殿が完成間近になり大仏に塗る金が不足していて金が欲しくてしょうがなかった時でした。
そんな時に陸奥国小田郡(宮城県遠田郡涌谷町)で金が採れることを聞き聖武天皇は年号を天平感宝(749)と改元するほど喜んだそうです。
それから東北に次々と金鉱脈が発見されるようなり、経済資源欲しさに中央政府による蝦夷征討が激しくなっていくのでした。
時は下って約300年後に奥州藤原氏が東北地方を治めるようになり、黄金文化といわれる『平泉』が誕生します。
藤原氏は青森の十三湊という大きな貿易港を持っていて、中央(京)を介さない独自の貿易ルートでアジア諸国と国際貿易を行っておりました。
砂金を取引で使用していたので、そこから金色堂のウワサが伝わったと推測されます。
東大寺の大仏建造に使われた黄金は10,446両といわれ、涌谷町のほかに陸前高田の玉山金山から産金されたものでした。
奥州藤原氏による黄金文化を支えた金鉱山はケセン地域(宮城県金華山、女川町、石巻市、登来市、南三陸町、陸前高田町、大船渡、釜石など)や盛岡市の大ケ生金山、秋田県の大葛鉱山など豊富にあったようです。
東北にこれだけ金が出るため、黄金に目がくらんだ権力者たちが東北に何度も侵略しに来る事情が伺えます。
黄金を探しに日本にきた外国船
古代ギリシャやローマ時代からも黄金伝説はあり、アジア・ヨーロッパ諸国で東洋にある『金の島・銀の島』伝説は大昔から語られていたそうです。
そして日宋貿易で深く関わっていた宋の『宋史・日本伝』では、『東の奥州では黄金を産出し』『西の島(対馬)は銀を産出』とばっちり記載されています。
ヨーロッパ圏では、マルコ・ポーロによる『東方見聞録』で東方にある伝説の金銀島の信憑性が深まり、コロンブスをはじめたくさんの冒険家が黄金を求めて船で旅立ちました。
それが大航海時代の始まりとなります。
元寇(蒙古襲来)
元寇とは、フビライ・ハンは勢力拡大に向けて南宋を孤立させる為に日本と良い関係を築こうと手紙送り付けてきたのが始まりです。
しかし鎌倉幕府は度重なる手紙を無視した為、フビライ・ハンは怒って日本に侵攻することになりました。
1度目の襲来は【文永の役】文永11年(1274)、2度目は【弘安の役】弘安4年(1281)です。
実際は日本にある無尽蔵な黄金の話を耳にし、征服目的で攻めてきたとも言われています。
しかし後に神風といわれる暴風雨によって鎌倉軍は助けられ、当時最強と名高いモンゴル軍は撤退していきました。
スペイン船のビスカイノ
慶長16年(1611)セバスチャン・ビスカイノは『金銀島』のありかと黄金採掘方法を探るため、東北沿岸の測量をさせてほしいと言ってきました。
スペインとの貿易を望んでいた徳川家康は、伊達領内でどれほど黄金が採れるか知りたかったのもあってビスカイノに朱印状を与えます。
しかし、ビスカイノは黄金の島と聞いていたので伊達領内にあまり注意を向けませんでした。
そのまま千島・樺太まで船を進めましたが、黄金の採掘現場に気付けず『金は昔採れていたけど、今は採れなくなった』という伊達政宗の言葉を信じて帰国していったそうです。
伊達政宗はしっかり黄金を死守しました。
オランダ船ブレスケン号
寛永20年(1643)にオランダ船ブレスケン号は『金銀島』を探索しに日本列島に訪れていました。
しかし房総半島沖で暴風雨に遭い、山田浦(岩手県山田町)に漂着しました。
水と食糧を補給しに上陸したオランダ人に山田の人々は驚いたが、温かく迎えもてなしました。
無事に出港したブレスケン号でしたが、また山田浦に漂着した時は南部藩に仕込まれた女郎でもてなされた船員は油断し捕縛されます。後に『ブレスケン号事件』と呼ばれました。
現在でも岩手の山田町にある大島はオランダ島とも呼ばれ、近くの小さな島は女郎島と呼ばれています。
当時の日本は鎖国態勢でしたが、山田の人々は関係なくオランダ人を心良く受け入れ、忘れないようにオランダ島と名付けたとのこと。
まとめ
金は錆びないし使い勝手がよく光輝いて美しいことから、古代より富と権力の象徴でした。いつの時代の人々も黄金を求め、黄金を中心に歴史が動いているとも言えます。
東北は資源が豊富で、それを元手に豊かな仏教国家『平泉』を築いた奥州藤原氏でしたが、権力者を魅了する黄金を保有していたため常に狙われ奪われて滅ぼされる運命をたどります。
日本の金は不条理な【日米修好通商条約】で他国に流出するようになり、何百年も産出され続けた金鉱山も採れなくなり閉山します。
黄金の国ジパングでは無くなりましたが、世界を大航海時代へ導いたのは奥州藤原氏の『平泉』であり、世界の歴史を動かしたと言えます。
近年、都市鉱山というものが注目されているようです。日本独自の技術力を発揮し、再び黄金の国ジパングが復活することを願います。
黄金争奪戦は昔からあり、金は終わる事のない飽くなき野望の対象なのです。
【参考資料・HP】
・あなたの知らない岩手県の歴史 監修:山本博文/(株)洋泉社
・東北の国はまほろば日高見国の面影 著者:中津攸子/(株)時事通信出版
・Wikipedia
不穏な世の中にはいると金が高騰するようです・・( *´艸`)
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