平泉・中尊寺金色堂には藤原氏4代のミイラが安置されております。
4体のうち3体は藤原清衡(きよひら)、藤原基衡(もとひら)、藤原秀衡(ひでひら)のミイラ、
残り1体の首だけのミイラは藤原忠衡(ただひら)(泰衡が殺したといわれている弟)のものと伝承されていたようです。
しかし、昭和25年(1950)に初めて学術調査を実施した結果、
藤原忠衡のミイラは藤原泰衡(ふじわらのやすひら)である可能性が高いこととなりました。
なぜ、頭蓋骨は藤原秀衡の棺の中に納められていたのでしょうか。
そしてなぜ『忠衡公』と名が記された首桶の首は、泰衡である可能性が出てきたのでしょう。
- 遺言を守り源義経を支持していた忠衡こそ4代目にふさわしい
- 謀反人で藤原氏を滅亡させた泰衡を父・秀衡と同じ棺に入れたくない(近親者が)
- 金色堂および藤原氏の棺は鎌倉軍の管理のもとにあった為誰も立ち入れない
学術調査から
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- 『吾妻鏡』の泰衡の首級は眉間に八寸釘を打ち付けたという記述と同じさらし首の痕跡が発見された
- 藤原3代みな京都人の特徴を持ち、ミイラ首の頭蓋骨も秀衡の頭蓋骨と近似していた
しかし逆に、『八寸釘が打ち付けられたミイラは泰衡の首ではない』という説を唱える方もいるのです。
そのような推理をした著書をもとに、自身の考察も合わせて『泰衡のミイラ首』についてご紹介したいと思います。
通説をくつがえす正史では語られないロマンある義経生存説★
地元伝承など幅広く研究され、裏付けされた根拠から面白い推理が展開されます‼
奥州藤原氏4代目:藤原泰衡とは
源義経が兄・源頼朝と対立し追われる身となったのち、最後の拠り所は養父ともいえる奥州藤原氏・藤原秀衡だけであった・・・
しかし、温かく出迎えてくれた東北の覇者:藤原秀衡は、義経が平泉に亡命後すぐに亡くなってしてしまう。
秀衡の後を継いだのは、藤原泰衡です。
泰衡は次男であったが正室の子が跡を継ぐしきたりにより、側室の子の長男:藤原国衡を差し置いて家督を継ぐカタチとなりました。
長男の国衡と次男の泰衡は仲が悪かったが、父・秀衡は死ぬ間際に兄弟の不仲を解くために自分の正室を長男:国衡に娶らせるのでした・・。
そのことによって、国衡と泰衡は義理の親子となったそうです。
そこまでして秀衡は、義経・国衡・泰衡の3人を結束させ自分の遺言に対しての起請文を3人に書かせました。
その遺言とは、
頼朝がこちらに軍を向けることになったら義経を総大将として担ぎ上げ、陸奥国・出羽国の大軍で対処せよ。
一族が力を合わせ決して背くことのないように。
秀衡は源氏の嫡男でもある義経を担ぎ上げることで、奥州藤原氏との対立ではなく
源氏同士の戦いとし後白河法皇の介入で収めてもらう事を期待していたのかもしれません。
※国衡に娶らせた女性(秀衡の正室であり泰衡の母)は後白河法皇の隠し子の姫宮ともいわれ、平泉伽羅御所は彼女の為に造らせた説があるようです・・(そもそも頼朝と義経を対立させたのが後白河法皇の可能性があるので期待薄いでしょう)
民の平和を安堵し奥州の独立維持を望む藤原氏の方針が垣間見える気がします。
秀衡は他界し、泰衡は遺言通り頼朝からの「義経を差し出せ」という要求に対して時間稼ぎのようにかわしていました。
そのうち頼朝からの圧力に耐えられなくなり、義経が住む衣川館を襲い自害に追い込みます。
正史では、藤原泰衡の取った行動は後の世で愚策とされ、
頼朝からの挑発に屈し義経だけでなく祖母や弟の忠衡、通衡をも殺害したあげくに平泉にある館に火をつけ北へ逃亡する。
奥州藤原氏を滅亡させた愚か者と言われています。
そればかりか頼朝の奥州征伐で逃亡し姿をくらましていた泰衡が、頼朝へ宛てた書状が、
義経を匿ったのは父・秀衡の方針であり、私はそんなことを望んではいない。
そして義経を討ち取った私の行為は勲巧といえるのに征伐対象となっているのはどうしてなのですか?
自分は死罪を許して頂きご家人にお加え頂くか配流にして頂きたい。今一度お考え頂き、比内群の辺りにご返答を頂きたいと思います。
この命乞いととれる内容だったようです。
あまりにもダメだめな4代目と言われてしまう書状の内容でした。
その後、源頼朝軍は紫波町の陣ヶ岡に陣を置き、これから泰衡追討の準備をという時に河田次郎が主人の『泰衡の首』を持ってきて梶原景時を通して頼朝へ届けられました。
河田次郎は比内郡贄柵(秋田県大館市二井田)の領主で、河田家は初代藤原清衡の代から仕えてきた藤原氏古参の家臣でした。
泰衡の首級を頼朝の元へ持参した河田でしたが、梶原景時を通してこう伝えられます。
泰衡を討つのは他の軍に頼らずとも時間の問題だった。それなのに恩を忘れ主君を裏切った行為は極めて重い罪だ。
と非難され恩賞を受けるどころかその日のうちに処刑されてしまいます・・・。
頼朝の理不尽極まりない残忍さは鎌倉でもよく見る行動のようですが、問題なのは『泰衡の首』にあったようで。
河田は大館市で泰衡の寝込みを襲い切った首を、岩手の紫波町にある陣ケ岡まで持っていき敷地内の井戸で首を洗ってから頼朝へ差し出されました。(現在も蜂神社に泰衡首洗い井戸が残っています)
首実検に立ち会ったのは、頼朝の家臣の和田義盛と畠山重忠でしたが泰衡の顔を知らないので泰衡の家臣で捕虜となっていた赤田次郎に確認させました。すると、その首は泰衡の首で間違いないと答えました。
耳や鼻が切り落とされ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれたうえ無数の傷がついた顔面でした。
しかし、なぜか『泰衡』の首だと判断したようです。
藤原泰衡は享年35歳でした。
陣ヶ岡での梶原景時・畠山重忠に関する関連記事もあります。
泰衡の首の行方
泰衡の首洗い井戸跡
源頼朝は、『泰衡の首』を前九年合戦の前例に習って八寸釘を刺しさらし首にしました。
前九年合戦とは、頼朝の先祖の源頼義・義家親子が陸奥六郡を支配していた安倍一族に対して行った侵略戦争です。
敗れた安倍貞任と藤原清衡の父:藤原経清は八寸釘で柱に打たれさらし首にされました・・・。
その後、泰衡の首はどこへ葬られたのか謎のままでしたが、秀衡の棺の中に一緒に納められた無残な傷を残した首のミイラこそ『泰衡の首』と現在では定説になっていきました。
では、誰がこの首を鎌倉軍の管理下になってたであろう中尊寺に持って行き秀衡の棺の中に入れたのか。
地元に伝わる伝承では、次のような話が何個かあるそうです。
「ある汚い風体の坊主が、内命だとか、さる偉いお方の命令だとか、頼朝公に会って説得し、首を抱いてどこかへ姿を消した」とか。
平泉で首桶を抱え僧衣の下にかくし持って、読経をして歩く乞食姿の僧侶がみられた、との風聞も立ったという・・
これと共通するような僧侶の伝承と近い内容が『吾妻鏡』にも記されております。
陣ケ岡に滞在していた頼朝を心蓮大法師という高僧がたずねてきました。
「中尊寺は鳥羽院の発願によって建てられた『御願寺』である。藤原清衡にお寺の領地を寄付してもらい独自で運営しているお寺であって、奥州民だけではなく国家の安寧を祈願するために存在するものです。」それに伴って中尊寺の再興と支援を求めたそうです。
これにより頼朝は、中尊寺に寄付をして以前の通り僧侶たちが守っていくようにと命令書を発しました。
その心蓮大法師こそが伝承によるところの『泰衡の首』を供養すると言い、平泉へ持ち帰ったのではないでしょうか。
泰衡首洗い井戸跡の案内板です。現地ではもう見つけられなかったので、森のHARMONY様の写真を拝借いたします。
泰衡の首から推測
中尊寺に戻った心蓮大法師によって泰衡の首は首桶に入れられ父・秀衡の棺と一緒に納められました。
しかしまだ不可思議な点は残ります。
泰衡の首はもしかしたら偽物の首である可能性をあげてみます。
『忠衡公』の首とした理由
心蓮大法師は頼朝から首を預かったので『泰衡の首』であるのを理解したうえで供養したはずです。
首を忠衡の首という事にした理由は、前述した【忠衡の首であるこれまでの常識】の
・遺言を守り源義経を支持していた忠衡こそ入るべき人物
・謀反人で藤原氏を滅亡させた泰衡を父・秀衡と同じ棺に入れたくない(近親者が)
という理由づけでした。
藤原忠衡はというと、藤原秀衡の三男で泰衡の異母弟になります。
源義経を強く支持していた人物で泰衡と対立し誅殺されたことになっています。
殺された当時の年齢は23歳という若さでした。
忠衡の名で首を入れたのは、近親者である樋爪氏に対して気を遣った為といわれています。
ミイラ首の調査では推定年齢は25歳~35歳といわれ、忠衡にしては年齢が少し上かもしれません。
そして酷い傷跡を縫合した跡があり、これは近親者によって手厚く葬られたといえますので泰衡は世に思われているような暗君ではなかった可能性も出てきます。
ところで、義経生存伝説によると忠衡も実は生きていて、子孫によって書かれた『祖は藤原忠衡』といった家伝書や伝承などが各地に残っているそうです。
必要以上につけられた傷
ミイラ首は、耳や鼻が切り落とされ眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれたうえ無数の傷がついた顔面であったそうで、あまりにも酷く残忍な首の状態でした。
河田次郎が泰衡の寝込みかだまし討ちをしたと仮定したら、上半身や背中を斬って絶命させるはずです。
その後に首を斬れば良いだけの話しなのに、死んだ後にこれだけ顔に傷をつけるなんて相当恨みがある人の犯行です。
臣下の河田氏を頼って比内郡贄柵まで訪れた泰衡との関係が悪かったとは考えにくいですし、自分と領地を守る為だとしても泰衡だと逆に判らなくなるような首級にしてしまう意味がわかりません。
泰衡とは別人の首を陣ヶ岡に持参したとすれば筋が通りそうですが、泰衡でない事をごまかす為に切り刻んだとか斬り合った風に見せる為だとしたら思慮が浅すぎるぞ河田次郎!と言いたいところです。(頂いたコメントに、惨い傷をつけたのは源頼朝ではないか?という見解があり、それもあり得ると感じます)
もう一人の『忠衡公』説
ここで浮上する人物、もう一人の忠衡の首だとしたら。という説があるようです。
奥州北の要所(紫波・矢巾町・盛岡市一帯)を治めていた樋爪俊衡の息子にも同じ名の『忠衡』がいます。
樋爪俊衡は藤原秀衡の実弟という説があり、樋爪忠衡と泰衡は従兄弟という関係になります。
まさに、泰衡と顔や背格好が似た影武者とするにはうってつけの人物かもれません。
『吾妻鏡』で頼朝は陣ヶ岡から厨川柵へ向かうと、樋爪俊衡とその親類縁者が投降してきたと記されています。
俊衡は白髪でひ弱な老人の姿であり、法華経を唱えること以外なにも喋らなかったが信仰深い頼朝は気に入り元の樋爪の領地をまた与えたそうです。
この樋爪俊衡と泰衡、河田次郎、心蓮大法師が『泰衡ニセ首計画』を事前に打ち合わせをしていたとしたら、、すべて繋がってきませんか。
ちなみに中尊寺に咲いてる古代ハスは、首桶に入っていた『蓮の種子』から800年後に花を咲かせ『泰衡蓮』と呼ばれています。
この蓮こそ樋爪館の領地内にある五郎沼で咲いていた蓮かもしれません。
樋爪俊衡は身代わりとなった息子を偲んで蓮の種を首桶に入れたのです。
仏教にとって蓮は、泥のような俗世から美しい花(悟り)を咲かせる象徴であり、死後の極楽浄土に咲いている花でもあります。
首を斬られたものに対する償いと、極楽浄土への成仏を願って種子を入れたのでしょうね。
\若き日の義経は、樋爪氏の館にいたという伝承があります/
義経の首を彷彿させる
泰衡は頼朝からの圧力に負けて義経を自害に追い込んだとされています。
しかし泰衡によって鎌倉に届けられた『義経の首』は酒に浸けていたうえに時間が経過し過ぎていたので判別不能だったようですが。
そもそも、頼朝からは生け捕りにして差し出せと言われているのに、泰衡はいきなり義経の館を軍で襲った後に頼朝へ首を送るという行動もかなり謎です。
義経生存説だと、その首は義経の身代わりとなった義経の母方の従兄弟にあたる杉目太郎行信の首だったという説があります。
判別不能の『義経の首』を鎌倉へ送ってきた泰衡の行動と、突然に陣ヶ岡へ届けられた『泰衡の首』。
パターンが似通っていて頼朝だってさすがに気づくと思いますよね。
義経生存説を採用するなら、頼朝は泰衡の首も偽首とわかったうえで泰衡を討ち取ったことにして朝廷へ報告した。
河田次郎を即刻処刑したのがその証拠ではないでしょうか。
まとめ
泰衡のミイラ首から推察する泰衡は、正史で言われているような臆病で短絡的な不肖の息子などではないのかもしれません。
義経や弟の忠衡を自分が殺したことにして逃がし、自らも愚者と見せかけ北へ逃げ奥州藤原氏の再興を願って生き延びることを選択した影の功労者かもしれません。
それにしても、写真やDNA鑑定などない時代に本人だと特定できる証拠なんて何もありません。
義経の従兄弟の偽首説にしてもそうですが、わざわざ似せる為だけに年恰好の近い近親者を殺すのは理解に苦しみますが・・・主君や藤原家の存続の為ならば命も惜しまないような、それが武士道というものなのですねきっと。
800年後に復活した蓮の花のように、奥州藤原氏の望んだ理想郷『万民平等・無益な戦は避ける・平和思想』を東北から再び実現できれば良いなと思います。
ほぼ参考にさせていただいた書籍です
コメント
コメント一覧 (2件)
大変面白く拝見しました。お詳しいですね。泰衡の首をガシガシに傷つけたのは、頼朝だと思いますよ。吾妻鏡の原文読むと、義経捜索に恐怖とストーカー並みの異常な執着で、よくも隠してやがったな奥州藤原氏め!みたいな。頼朝て小心者の、お育ちから他人を信じられない嫌な奴ですから。首実検前に傷つけたら証拠品を損ねます。まあ、義経主従の亡霊をみたといって、馬入川で落馬してダイブ、溺死とも、女に会いに行くために女装して出歩き、不審者として斬られた、ともいわれるみっともない征夷大将軍ですから。息子達も能力なくて残念ですし、天下治める能力もない、ブレーンの北条に寄生木みたいに皆殺しにされて良かったですね、としか。亡くなる時、やっと気付いて枕元に畠山重忠を呼び「頼家を守れ」と遺言したそうですが、長年お飾りのマスオさんで、自身の兵は一兵ももたないくせに誰が従うでしょう、あっという間に案の定、頼家は幽閉先の修善寺で風呂に入っているところを北条の刺客に毒を盛られ男性の大事なところを切られ、斬殺されましたしね。修善寺の伝承では、毒を盛られ崩れた顔をうつした古いお面も残ってますよ。頼朝が北条に見捨てられたのは、清盛のように娘を天皇の妃にしたい、といって秘かに交渉し、交換条件として、鎌倉幕府が長年苦労して手に入れた地頭の徴税権を勝手に朝廷に返上しちゃったからだといわれています。みんなドン引きです。平家は貴族化したから武家として弱体化して滅びたのに、それすら頼朝は意味分かってなかったってことです。更に爆笑なのは、入内予定の次女が患い、京都から派遣された医師が投薬した翌日、さっそく息絶え冷たくなりました。京都では権力者の娘がその頃ちょうど皇子を生み、迷惑だったんですよ。長女はいいなずけを頼朝に殺され19歳で狂い死に。長男次男も殺され。弟たちは自分が殺しましたよね。まあ、関東連合のお飾りの頼朝が足りない頭で北条に逆らい、余計なことするから源氏全滅です。ちなみに、久我大臣というのは確認できず、源通親といいたいのでしょうが、娘たちは宮中にいたり全員嫁ぎ先もはっきりしていて、関係ないです。義経の一番身分高い妻は平時忠の姫で、正室として尊卑文脈に載っています。義仲の、藤原尹子も押しかけ無理婚でしたし、検非違使長官伊予の守レベルでは大臣クラスの姫はもらえないです。悲劇にするための誇大広告でしょうね。大物浦で遭難したとき、30人を超える女性を置いていったそうですから、そんな誰かか、東北で現地調達した女性と思いますよ。吉野でも、白拍子を二人連れていたそうです、むしろ、義経の家来の誰かが逃げて来たんでしょうね。話が悠長すぎますから。名乗った途端、鎌倉幕府の追っ手が来ますよ。その辺り想像がつかない純朴な地元の住民が作り上げた伝説なんでしょうね。
長文のコメント大変うれしく思います★
泰衡の首を傷つけまくった犯人は→ 頼朝。あり得ますね!とにかく人を信用しないくせに女好きでプライドばかり高い嫌な奴(笑)ですもんね。源頼義・義家の親子も嫌な奴だ(岩手・秋田県民にとって)。
義経も・・・彼の存在が奥州藤原氏が滅亡するきっかけを作ったとしか思えません。
北条氏に見限られたきっかけが、守護地頭の徴税権を朝廷に返還したのですか?国司任務権を返したような感じでしょうか?そしたら関東の御家人たちは何のために戦ってきたのって話ですね。知識不足なのでもっと勉強してみます★