源義経はなぜ強かったのか?|藤原秀衡が庇護した理由を伝説から探る★

源義経 強い なぜ 強かった


数々の伝説を残した人気武将。

悲劇のヒーロー源義経(みなもとのよしつね)ですが、『牛若丸と弁慶の五条大橋での出会い』など牛若丸時代の義経物語は多く知られています。

しかし、鞍馬寺を脱出し平泉に身を寄せてから源頼朝による源氏再興の立ち上げに参戦に至るまでの史料がなく、その間を空白の6年と言われています。

ぷーとん

『平泉』で16歳から22歳までの間・・・義経は何をしていたの?

歴史上では平泉で生涯を終えた義経なのですが、岩手県には『義経生存伝説にまつわる伝承地』がたくさんあります。

その名も『義経北行伝説』



その『義経北行伝説』のコースに含まれていないある場所に『義経神社』がありまして、調べてみるとその場所はかつて鞍馬寺から脱出してきた義経が過ごしたといわれる伝承地でした!!

愛らんど

この伝承から、義経の強さの理由が見えてきます。

目次

『義経神社』の伝承とは

義経神社
判官堂(義経神社)

そこは岩手県紫波郡紫波町赤沢という地区にあり、『判官堂』(義経神社)といわれるお社がありました。

ご祭神はもちろん源義経です。

このお社を代々守り続けているのが敷地内に住む大角家で、

義経が使用した弓・空穂・弦巻や、義経の笹竜胆の家紋が入った印籠・刀も社宝として現存しているそうです。

大角家に伝わる伝承では、この地で義経は馬術弓の訓練をしていたそうです。

実際に周辺には『鐙越(あぶみこし)』『的場(まとば)』や『矢島(やじま)』

という地名が今でも残っていることから、義経が存在した痕跡と言えますね。

『鵯越の逆落とし』の原型

紫波町赤沢 鎧越

義経といえば一ノ谷合戦の『鵯越の逆落とし』が有名です。

鵯越の逆落としとは?
断崖絶壁を馬で駆け下りるという奇襲攻撃をしかけ、源氏軍を勝利に導いたとされる戦術

赤沢にある小高い山の頂上付近を『矢島』と呼び、『鐙越』という急斜面は『鵯越の逆落とし』の地形によく似ていて、

義経はそこから馬で駆け下り馬上から『的場』に向かって弓を射る訓練を行っていました。

『矢島』はかつて断崖絶壁の丘だったようですので、

その頃から平家打倒に向けての思いを秘めて騎射を磨いていたのかもしれません。

義経は「鹿が通るところを馬が通れぬはずがない」と一気に駆け下りていったといわれていますが、

馬で崖を下りることを躊躇せず出来てしまうのは赤沢での訓練のたまものなのかもしれません。

義経、若き日の恋人

義経井戸

義経が訓練の合間に休憩所として立ち寄ったとされる『義経の井戸』があります。

大角家に伝わる伝承によると、井戸の水を飲みに来る義経とそこの民家に住むハルという娘は恋仲になったそうです。

その後二人の間には男の子が産まれ、その末裔が『義経神社』を管理している大角家なのです。

しかし義経は、ハルが出産する前に頼朝の挙兵に馳せ参じるべくして行ってしまいました。

大角家に伝わる『弓』は壊れて使えなくなったので義経がハルへ処分するように渡したのですが、形見として取って置いたモノだそうです。

ほかにも義経がこの地を去る時に、お世話になったお礼として置いていった『短刀』や『鏡』が現存しております。

藤原秀衡が義経をかくまった理由

奥州藤原氏3代目・藤原秀衡は2度も義経を庇護しました。

1度目は出家が嫌で鞍馬寺から逃げた時、2度目は頼朝から追われる身となった時。

義経をかくまうということは、どちらもデメリットしか無い状況でした。

1|平家の世において源氏の子を匿うことは、やっと陸奥守になった藤原秀衡の立場が悪くなる
2|鎌倉政権を開いた頼朝を敵にまわす、または頼朝に奥州征伐の口実を与えてしまう


1度目は藤原基成(藤原秀衡の奥方の父)が、一条長成と常盤御前(義経の母)からの働きかけで義経を養育することになった説があり、秀衡にとって義経は源氏の御曹司なので平家と敵対した際の保険のようなものであったことでしょう。

しかし、赤沢地区の歴史をたどると義経に対する秀衡の心情が見えてくるのです。

【赤沢の歴史】から秀衡の思惑をさぐる

義経神社 紫波町

秀衡はなぜ平泉ではなく、赤沢の蓮華寺で義経を養育していたのでしょうか。

この地は奥州藤原氏の始祖:藤原清衡の4男・清綱の子の樋爪俊衡(ひづめとしひら)が治めていたそうです。

白山神社には前九年合戦で逃げ延びた藤原清衡の父:藤原経清の母の石碑があります。

また、赤沢出身の清衡の母:中加一前(有加一前とも)を戦火を逃れるために帰省させていて、この地で清衡を出産したともいわれています。

このことから赤沢は、初代奥州藤原氏・藤原清衡にゆかりがある地といえます。

藤原清衡は産まれた頃から過酷な運命を生き、何度も窮地を逃れ生かされた人物でありました。

※義経は平清盛によって生かされた、その後義経の母:常盤御前は一時的に平清盛の妾になったといわれます

この清衡の境遇は義経の境遇と重なる部分があると思われ、秀衡は義経を生かすことが自分の運命であり、奥州にとって大業を成す人物へと成長する何かを感じていたのかもしれません。

そして義経の戦のセンスを見出し、2度目に渡って秀衡を頼ってきた義経を匿います。

頼朝が奥州を攻めて来たときは、義経を旗頭にして頼朝と対峙させるもりだったのかもしれません。

初代・藤原清衡の父・藤原経清は朝廷側の人間でしたが、【前九年合戦】で陸奥国奥六郡・安倍氏側につき敗戦後に斬首されます

愛らんど

この前九年合戦における藤原経清の運命と、義経の運命が似通ってしまったのも不思議なものですね。

ちょっと、人物の名前が似ていてわけがわからないと思いますので、関連記事はこちらです↓

まとめ

弓 義経


紫波町赤沢に伝わる義経伝から、義経16歳から22歳の日常が垣間見えましたね。

【義経が戦が強かった理由】

  • 馬術や弓の訓練をしていた
  • 東北の駿馬で崖を下りて訓練をしていた

【藤原秀衡が義経をかくまった理由】

  • 義経の境遇に運命を感じた(奥州藤原氏の祖・藤原経清と藤原清衡と重ねた)
  • 義経の戦のセンスを見出していた

義経が二十歳になった時に中尊寺で流鏑馬(やぶさめ)を披露したそうで、その腕前に秀衡はじめ皆驚いたそうです。

それにしても義経は数十人の妻や妾がいたともいわれておりますが、昔からモテていたようで。

練習の合間に水飲み場にいる村娘との恋って。。。青春していたようですね★

ぷーとん

馬の鍛錬も恋愛もしっかりと行って、天才軍略家はさすがに抜け目ない!

【参考資料・HP】
・義経北紀行伝説 第一巻 平泉篇
 著者:山崎 純醒/批評社
義経夢の会HP
紫波町観光交流協会HP

この本かなりおススメですっ✨正史では解らない義経のすべてがこの本に‼

義経北紀行伝説 第1巻[本/雑誌] / 山崎純醒/著

義経の強さの秘密はこの記事でもわかります!

義経がモテる秘密はこの記事に★

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次