【義経伝説と重忠伝説】馬を背負った男、畠山重忠の子孫は東北に?!

義経北行 畠山重忠

悲劇の英雄・源義経(みなもとのよしつね)は『平家滅亡』に導いた功労者であり、武勇も持ち合わせる天才軍略家と称されております。

しかし、同じく源平合戦で活躍し智勇を兼ね備えた武将がおりました。

その名は畠山次郎重忠(はたけやまじろうしげただ)です。

愛らんど

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』での畠山重忠はすごくイケメンだけど、本当はどんな人物だったのかしら。

史実とは違う東北に残る伝承から、畠山重忠の人物像と東北に多くいる【畠山】姓の謎をまとめてみました。

目次

源義経と畠山重忠の関係

畠山重忠


畠山重忠は、源義経の部下として共に戦っています。

重忠は『宇治川の合戦』で、水中で自分にしがみつく大串重親をつかんで岸へ投げたという逸話があります。

また『一ノ谷の合戦』での義経の作戦である鵯越の逆落しでは、義経や他のものが馬で崖を駆けおりるところ、重忠は馬をいたわり背負っておりたという逸話もあります。

重忠は義経の部下として奇襲部隊を任されていました。
このとき義経25歳、重忠は20歳です。

二人とも若く、真っすぐな性格が共通しているので信頼関係にあったのではないかと思われます。

そして馬を背負うエピソードは、とても力持ちで心優しい重忠の人柄がわかります。

若かりし頃の【義経】です

奥州合戦での畠山重忠

重忠様

『吾妻鏡』の記述によると、

奥州合戦中、藤原泰衡の家臣の由利八郎(由利維平)が源氏軍につかまり陣ヶ岡に連れてこられました。

しかし源氏側の武将2人がどちらが捕らえたか手柄を争っていています。

そこで源頼朝の家臣・梶原景時がどちらの武将に捕らえられたのかと由利八郎に聞くと、あまりに傲慢な言い方に由利八郎は怒って答えなくなりました。

頼朝は代わりに畠山重忠に任せると、重忠は地面に正座をし八郎には敷物に座らせ敬意をもって質問しました。

「戦場において囚われるのは恥ではありません。頼朝殿も捕虜となり伊豆へ幽閉された身でありましたが運あって天下を取る事ができました。今は捕らわれの身でありますが、いつまでもその状況が続くワケではありません。由利殿は名のある武将ゆえ手柄を競っているので、どちらの者が生け捕ったのか鎧と馬の色を教えていただけませんか。」

由利八郎は畠山重忠の礼儀を持った態度に感心して、質問に応じたそうです。

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【義経北行伝説】の畠山重忠

義経北行コース  畠山重忠

通説では平泉で自害してしまった義経ですが、本当は生きていて北へ逃げ延びていったという『義経北行伝説』が東北から北海道まで語り継がれています。

なぜなら『義経北行コース』には、奥州合戦で先陣をきっていた畠山重忠の伝承も残っているのです。

義経北行伝説における畠山重忠の伝承年代は建久2年(1191)とされています。

奥州合戦から2年後であり、源頼朝が首実検で義経が死亡したと宣言してから2年が経過しています。

ちなみに北行伝説で義経は、奥州合戦の前年1188年に平泉を出て宮古市に3年滞在しているので年代のつじつまが合ってしまいます。

そう源頼朝は義経死亡から2年後、『奥州軍残党狩り』と称して死んだはずの義経追撃畠山重忠に命じています。

頼朝は義経が生きていることを知っていて、平泉軍の残党を引き連れて反撃に来るのを未だに恐れていたのでしょうか。

畠山神社(田野畑村)

畠山神社 田野畑村 義経北行伝説 畠山重忠


岩手県田野畑村にある畠山神社です。

頼朝からの命じられ、義経追撃部隊としてやってきた畠山重忠の伝承があります。

この地で畠山重忠の愛馬が亡くなったので、埋葬してあぶみを供えたそうです。そしてこのお社には、鎌倉時代のものと伝わる鎧が残っています。

またもや重忠がを大事にしているエピソードですね。

諏訪神社(久慈市)

諏訪神社 久慈市 畠山重忠 義経北行伝説

逃亡中の源義経たちは、諏訪の森で先まわりしていた畠山重忠と遭遇します。

「もはやこれまでか」と覚悟を決めかけた義経でした。

しかし義経に同情していた重忠は「義経に矢が当たらないように」と願いながら放ち、矢は外れて松の木に刺さります。

そのまま義経は逃げ去って行き、重忠は後を追わずに見届けました。

その矢を御神体として祀ったのが『諏訪大明神』で現在の『諏訪神社』です。

この社は、人々が義経を見逃してくれた重忠を称賛して『畠山重忠』を祀った神社ともいわれています。

畠山重忠の子孫

浄法寺氏(じょうぼうじし)

岩手県二戸市に浄法寺町という地名がありますが、由来は鎌倉幕府御家人の畠山氏からきているそうです。

地名の由来はかつてこの地方を治めていた『浄法寺氏(じょうぼうじし)によるものとされ、浄法寺氏の本姓は畠山氏であり畠山重忠の三男の『重慶(ちょうけい)が祖となっています。

源頼朝が亡くなった後、畠山重忠やその息子たちは北条氏の謀略で滅ぼされてしまいますが、難を逃れた三男の重慶が鎌倉浄法寺にて出家して奥州に下ったとされています。

浄法寺氏は安土桃山時代ころまで広大な浄法寺城を築き、大豪族となりましたが断絶してしまいます。

秋田県の畠山氏

ネットから得た情報で恐縮なのですが、秋田県にも畠山重忠の子孫が現在も存在しているそうなのです。

畠山重忠の子孫・秋田県出身の畠山さんのブログから一部引用させていただきます。

畠山一族(埼玉県深谷市)は滅亡するが、重忠の長男である重保(しげやす)の妻信子は幼子を抱いて、日本海にでて秋田の海岸に辿りつく。その後由利本荘市・鮎瀬に住み着いたというのである。

しかも、重保の妻信子が頼ったのは秋田の由利氏というではないですか。

そう、奥州合戦で捕虜となった由利八郎の一族です。

畠山重忠との関係も納得ができますし、由利本荘市と成り立ちと畠山姓の追究をしなければなりませんね💡

まとめ

畠山重忠の義経を見逃した行動は、武士の情けってやつでしょうか。

ウワサどおりの坂東武士の鑑と称された人物だったようですね。

岩手は有数の馬産地で、馬は家族として同じ家で暮らす『南部曲がり屋』があったり、馬を着飾って練り歩くお祭りの『チャグチャグ馬っこ』があります。

馬を愛し大切にする重忠の子孫が岩手の浄法寺町から広がっていると信じたいです。

そして捕虜となった由利八郎へに対する礼儀を持った姿勢、その後重忠の子孫が由利家によって守られる。なんて逸話は素晴らしい後日談だと思いませんか?✨

それにしても、東北は落人伝説が数多くあります。

もしかしたら、歴史の裏側にある真実が東北にはあるのかもしれませんね⭐

【参考資料・HP】
・義経北行伝説の旅 著者:伊藤孝博/無明舎出版
・義経北紀行伝説 第一巻 平泉篇
 著者:山崎 純醒/批評社

・義経北行伝説 義経はチンギスカンになったか
著者:黒沢 賢一/㈱本の泉社
義経夢の会「山崎純醒先生ブログ」
いわてのてっぺん「japanの郷 二戸」
人間浴

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