源義経の愛妾として有名な静御前(しずかごぜん)は、史書『吾妻鏡』によると鎌倉で出産した後、京へ帰されたとあります。
その後の消息は記されておりません。
静御前はその後どうなったの?!
史書には残されておりませんが、静御前はどのよう生きて生涯を終えたのかは、全国に伝承として残っています。
地域伝承の一つに、【義経北行伝説】があります。
それとつながる岩手県の【静御前伝説】をご紹介したいと思います。
義経と別れた後の静御前
- 文治2年(1186)2月静御前は義経と吉野山で別れたあと捕らえられ、母・磯禅師と鎌倉へ連れていかれる
- 文治2年(1186)4月義経の子を身ごもっているが鶴岡八幡宮で舞を踊ることとなる
- 文治2年(1186)7月男児を出産、子は母から安達新三郎清経へと奪われ由比ヶ浜に捨てられる
- 文治2年(1186)9月産後の回復後、政子と大姫からたくさんのお土産をもらい京へ帰される
鶴岡八幡宮での静御前はコチラの記事↓をご覧ください。
その後の行方は記されておらず、各地の伝承による静のその後とは・・?!
岩手の【静御前伝説】
【義経北行伝説】と同じく、静御前も義経を追って奥州に訪れたという伝承が岩手県宮古市に存在します。
その内容とは、
平泉に逃れた義経は静御前を呼び寄せます。
金売吉次の案内によって平泉にたどり着いた静は、短い期間ですが義経と過ごし二人目の子を身ごもりました。
その後に庇護者の藤原秀衡が亡くなり、兄・源頼朝からの刺客から逃れるため
義経一行は蝦夷地を目指して平泉を離れました。
静は妊娠中の身でしたが、金売吉次の案内と山名家の3兄弟の護衛とともに義経一行とは別のルートを辿ります。
静御前と義経の子供
岩手県宮古市田鎖には、義経と静の子が生きていて代々子孫を残したと伝承があります。
静が産んだ男児は由比ケ浜で殺されたはずですが、
北条政子の計らいで安達新三郎清経によって生かされて
佐々木四郎高綱の養子として育てられていたと伝えられています。
佐々木高綱は家督を息子に譲り高野山に出家し諸国を巡礼しますが、
養子の佐々木義高(義経の子)には、朝廷より賜った奥州閉伊郡を与えられこの地の領主になったとのこと。
また別伝では、佐々木高綱の父・佐々木秀義が平治の乱で敗れ親戚の藤原秀衡を頼って奥州へ下る。
以来、佐々木家は藤原氏の忠臣となっていた。
義経の遺児は奥州藤原氏へ送り届けられたが、跡取りは頼りないので佐々木高綱ならと紹介されたという伝承もあるようです。
この地域に伝わる郷土芸能『箱石こうきりこ』は静御前が伝えた踊りで、子に再会した時の心情を歌ったものではないかと言われます。
静御前の墓
岩手県宮古市鈴久名地区にある『鈴ヶ神社(すずかじんじゃ)』は静御前を祀っており、供養塔もあります。
静は2人目子の出産のためこの地に館を建て滞在していましたが、
難産の末に男児を出産し母子ともに亡くなってしまいます。
亡骸は密かに火葬され、遺骨は京へ送り届けられたとのこと。
この近くにある箱石地区には『判官神社』があり、
この神社は山名家が管理していて義経たちが泊まったという伝承があるようです。
(静は山名家でお世話になっていたのかもしれません。)
聡明であった静の死を悲しみ、神様として奉ったのが神社のはじまりと伝えられます。
「しずか」が訛って「すずか」となり、または「静御前さま」と地元の人は呼んでいたそうです。
まとめ
【義経北行伝説】と関連する岩手の静御前にまつわる伝説でした。
正史として語られる話とは、場所も時系列もぜんぜん違う歴史で希望が持てる内容です。
静御前は鈴久名で亡くなってしまいましたが、今回でわかった事は
- 由比ケ浜で亡くなった子が生きて子孫を残していた
- 吉野山で別れた数年後、静と義経は奥州で再会していた
- 2人は同じ時を過ごし第二子を授かっていた
それは義経と同じく静御前に対する憐れみとひいき目があり、人々の願いから生まれたものなのか事実として伝えられたのかはわかりません。
義経と静御前を慕う人々の思い・願いが伝説となってパラレルワールド的に新たな歴史が存在していたかもしれません。
静と義経の旅に思いをはせながら(歴史ロマンに浸りながら)、義経北行ルートを辿ってみてはいかがでしょうか💖
『義経北行伝説』の地はこれ以外にまだたくさんありますが、今回は岩手県内における静御前伝承地のご紹介と致しました。
【参考資料・HP】
・義経 北行伝説の旅 著者:伊藤孝博/無明舎出版
・義経と静御前二人の「その後」 著者:今泉正顕/PHP研究所
・鈴ヶ神社と静御前
・義経北行伝説ドライブガイド義経は北へ 岩手県県北広域振興局/岩手県沿岸広域振興局
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