義経ぜんぜん生きてた!青森・八戸の『義経北行伝説』ルートをたどる★

義経伝説 八戸 ルート

平家を滅亡させた立役者として名高い源義経(みなもとのよしつね)ですが、最期は平泉で自害してその生涯を終えたと史実は語っています。

しかし、判官ほうがんびいきという言葉が生まれるほど世の民から絶大な人気を誇る義経は、死なずに北へ向かって旅立ったという伝承が岩手・青森・北海道で多く語り継がれています。

※判官とは・・義経の役職

青森県八戸市に伝わる伝承は、岩手の北行伝説とは一味違ったものがあり『類家稲荷大明神縁起』によるところの伝承が数多くあります。

しかも、岩手の沿岸北行ルートから青森の沿岸へとつながることもあってリアリティが増しています。

今回、青森県八戸にある『義経一行の伝承地スポット』をめぐって参りましたのでご紹介したいと思います。

愛らんど

平泉を出発し、八戸へ上陸した『義経一行』になったつもりで北行伝説ひとり旅を楽しんできました❤

岩手の義経北行伝説はコチラの記事です

目次

『類家稲荷大明神縁起』とは

八戸市に伝わる伝承は『龗神社』に伝わる古文書『類家稲荷大明神縁起』が元となったものが多いと思われます。

享保17年(1732)に、榊家の子孫が語り継いできた伝承を八戸藩医の関諄甫せきじゅんぽが書き残したとされ、昭和30年代に発見されました。

以下の伝承から、岩手の北行伝説とは違う八戸義経北行伝説のはじまりです❣

・藤原秀衡が亡くなった後、泰衡たちは態度が急変し長くは匿ってもらえないと察した義経は家来の喜三太と板橋長治に「海辺近くの良い土地を探して来るように」と少しの金を託して行かせた。
・八戸の良い場所を見立て、一人はそれを報告しに平泉へ戻った。
・文治4年(1188)4月:義経は北の方と6、7人の主従を連れて平泉を出発した。気仙から海陸ルートで八戸へ上陸する。

法霊山龗神社HP
法霊山龗神社【公式】インスタグラムより

文治4年というと、義経が平泉の衣川(高館)で自害するちょうど1年前になり、史実を覆す内容でとても面白いです⭐

八戸市『義経北行伝説』をたどる

青森での義経一行が立ち寄ったとされる伝承地は八戸からはじまるのですが、そこに至るまでの直前の伝承があった場所は岩手県久慈市にありました。

久慈市の諏訪神社に伝わる縁起によると、義経生存の報告から鎌倉より向けられた使者として鎌倉幕府御家人・畠山重忠がこの地へ訪れます。

ついに義経を追いつめた重忠でしたが、源平合戦で共に戦った義経の不遇を哀しみわざと外れるように矢を放ったそうです。

そして義経は源道を抜け侍浜へ逃げていき、ここで義経一行の岩手での消息は途絶えました。

種差海岸(熊野神社)

種差海岸

八戸ではじめに登場するのが種差海岸(たねさしかいがん)です。

付近の【熊野神社の伝承】によると、義経一行は気仙の港から種差海岸に上陸して熊野神社で休憩したと伝わっているようです。

久慈の侍浜から船で八戸へたどり着いたという見方もできましたが、気仙は岩手県陸前高田市気仙町とされ岩手県南の平泉からちょうど東の沿岸になります。

もしかすると義経の旅団は何組かあり、それぞれ別ルートで北上していた可能性もありますね💡

種差海岸とても美しいです✨

義経はこの海岸を見て何を想っていたのでしょうか・・・。

\種差海岸にある蕪嶋神社へ立ち寄りました★/

三嶋神社(白銀地区)

三嶋神社 八戸

【三嶋神社の伝承】によると、種差海岸に上陸した義経一行は白銀地区のとある民家に一時的に住んでいました。

義経一行をお世話していた家は「今後は判官姓を名乗るといい」と言われたが、『判官』では差し障りがあるので『法官』と改姓しました。

白銀地区に残る『源氏囲内(げんじかこいない)』という地名は『源氏の屋敷』という意味もあるそうです。

世話になった家に『判官(ほうがん)』と名乗るように。←これは岩手でもよくありましたので、過去に判官姓を名乗っていた家や神社を辿ると義経の足取りが浮き彫りになります💡

館越と高館の地(高館蒼前神社)

種差海岸を北上していくと、【館越】という地名があります。

この地は義経一行が北の方(久我御前)が身ごもった為、仮の住まいを建てた場所といわれます。

1年ほど住んだが地の利が悪いので馬淵川の北川台地が良いとなり、引っ越しをして新しく館を築きました。

家来たちは『高館の御所』と呼んでいたそうです。(義経の平泉での居住地も高館でした)

仮に住んでいた地は『館越(たてごし)』と呼ばれ、移り住んだ地は『高館(たかだて)』と呼ばれるようになりました。

義経たちは、平泉で居住していた高館を真似てどのような家を造ったのでしょうね✨

小田八幡宮(こだはちまんぐう)

小田八幡宮 義経 八戸
小田八幡宮内にある義経堂

義経一行が居住していた高館山の南の麓に【小田八幡宮(こだはちまんぐう)】が鎮座しています。

ここは義経の祖・源頼義が天喜年間(1053~1058)に鎮守として八幡社を建立したのが始まりです。

境内に『義経堂』があり、昔はお宮の中に義経像と弁慶像を祀っていたそうです。

義経は毘沙門天像を彫らせ、背中に三寸六分(12㎝)の八幡尊像を収めて祀ったそうです。

現在でもその毘沙門天像が現存しています。

また300巻もの大般若写経とその経箱が現存し、それぞれ筆跡の異なる写経は義経主従6・7人によって奉納されたと伝わります。

岩手県宮古市・黒森神社で、義経主従が書写した般若経典600巻の伝承と繋がります。それの内の300巻だった説あり

義経主従が記した大般若写経の一部

義経は高館の東南の低地に水を引いて、小さい田んぼを開墾していったそうです。

現在の『小田』の地名の由来といわれています。

境内には池があり立派な庭園となっています。

神門に義経印【笹竜胆】の紋章がありました⭐

京ヶ原と京ヶ崎(三八城神社)

義経は、高館の御所から見渡す八戸の地形が京に似ていることから馬淵川東の野原を『京ヶ原』と呼び、北の州先を『京ヶ崎』と命名したそうです。


ここにある弁慶石と呼ばれる大きな石は、大きな足形にくぼんでいる所が弁慶の足形と言われる。

しかし、弁慶の〇〇ってのは、全国的によくありますね!

義経と並び立つ人気者ですもんね。

法霊山龗神社(ほうれいさおがみじんじゃ)

おがみ神社 八戸

八戸市街地にあるここ【龗神社(おがみじんじゃ)】に伝わるのが古文書『類家稲荷大明神縁起』です。

龗神社の起源はかなり古くはっきりとわからないそうですが、八戸村柏崎という地名だった頃は自然崇拝・産土信仰からはじまった1200年前ほどではないかと言われています。

元久年間(1204~1206)義経の正妻・北の方(久我御前)がこの地で亡くなり葬った場所が京ヶ崎で、後の法霊大明神で現在の龗神社となったそうです。

久我御前とは

源(久我)通親の娘、良子御前(ながこごぜん)ともいう

史実では北の方は郷御前となっていますが、八戸まで連れてきたのは久我御前のようです。

木曽義仲を討ち破って京に滞在している時に婚姻したのでしょうか。

また、東津軽の方には義経の遺児・鶴姫伝説や、妾・浄瑠璃姫伝説が登場します🌸

しかし義経は女性がらみの伝承が多いですね!

源氏の棟梁で何かとモテるのはわかりますが、かなり女好きの可能性もあると思います❣(自由な人とも言う)

藤ヶ森稲荷神社(ふじがもりいなりじんじゃ)

藤ヶ森稲荷神社

龗神社から徒歩15分の場所にある【藤ヶ森稲荷神社】です。

この神社の伝承によると、八戸に上陸した義経は家来の常陸坊海尊を京へ派遣し一握りの砂を持ち帰らせて産土神の藤森神社(京都市伏見区)を勧請させました。

義経はたびたび藤ヶ森稲荷に参拝し、自ら神事を執り行うこともありました。

その時に高館から往復するのが面倒なので近所に茅の小屋を建て、家来たちもそれぞれの小屋を建てます。

義経は「家に類するものが建った」と笑い『類家稲荷』とも呼ばれるようになったそう。

また小屋とは別に烏帽子や狩衣を掛けた場所を設けていて、その場所は現在では『烏帽子屋敷』後に『ぼっち屋敷』と呼ばれるようになりました。

ポツンと一軒家だったのか、現代風のクローゼットですねきっと。

義経が、家来や八戸の民とほのぼの暮らしている情景が浮かびました・・・。🌸

長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)

長者山新羅神社

【長者山新羅神社】の伝承によると、長橋長治喜三太が義経の依頼で平泉からこの地へ訪れて、定住地として目星を付けた場所とされています。

板橋長治が住んだ所は『板橋村』と呼ばれ、長治は柴で囲いを作ったり樹木を生け立て人が入って来ないようにしました。

この山は『長治山』と呼ばれたが、現在では『長者山』と呼ばれるようになりました。

板橋長治とは?

泉三郎忠衡(藤原秀衡の三男)の母方(佐藤基治の妹)の叔父にあたります。
忠衡は義経擁護派を訴えていたので泰衡に誅殺された人物となっています。北行伝説の中では義経と共に平泉を脱出した義経一行の一人です。

あまり聞かない『板橋長治』という人物ですが、八戸には彼に由来する地名ほかにもあります。

①糠塚・・板橋長治が八戸へ来たときは小屋が数軒あるだけで湿地だった。食べる米が無かったので三戸で籾を買って牛に運ばせ精米をした。その糠を捨てた場所が後に『糠塚』という地名となった。
②櫛引・・牛を預けていた民家が2、3軒あって『牛ひき村』と呼ばれ、くしひき→櫛引(くしびき)となる。

地名として義経の痕跡がしっかり残っているのが、伝説の裏付けともいえますよね!

義経が八戸を離れた理由

青森では長期滞在していて、田畑を開墾したり神社を建てたりと北行伝説の中では長く暮らしたようです。

八戸滞在中に平泉の滅亡を知り、義経はとても嘆き悲しみました。

その後に、頼朝や梶原景時が亡くなったことも知ることになります。

それから何度もあったようですが、義経生存のウワサが世間に広がりはじめたようです。

そして長く付き添ってきた北の方・久我御前も亡くなり、義経は再起を図る気力は失ってしまったようです。

家来には、

我が身の状況(義経存命)のことを世間はいろいろウワサをしているようだが、鎌倉から呼び戻された所で若輩の甥っ子たちに仕える気にはならない。讒言する者(梶原景時のような)が出て刺客を差し向けられたら八戸だけでなく多くの人が犠牲になる。もう世の情勢に関わりたくない

と語りました。

※讒言とは・・他人をおとしいれるため悪く告げ口する事

その後の義経は、4~5人の側近を連れて船で北へ旅立って行ったとのこと・・・。

『八戸・義経北行伝説ルート』で分かったこと

義経北行伝説ルートをめぐり、以下のことが分かりました。

  • 藤原秀衡が亡くなった後にすぐに転居地を家来たちに探しに行かせていた
  • 衣川の館(高館)が攻められる前年の文治4年には平泉を脱出していた
  • 気仙(陸前高田市)から八戸まで船で渡ってきた
  • 沙門天像を彫らせたり、神社を築き自ら神事を行っていた
  • 平泉滅亡・頼朝の死を八戸で知った

それから義経一行の足取りは、青森の津軽や下北半島のほうでまた現れます。

平泉の滅亡、源頼朝や北の方を亡くし時代は移り変わっている中、義経は何の目的でどこへ向かったのでしょうか・・・『義経北行の旅』はまだまだ続いていくのでした。

おわりに

八戸の街に一泊し、みろく横丁の夜を楽しみました🍺

みろく横丁

観光客がほとんどのようでしたので、カウンター席に女ひとりでもへっちゃらです🍺

愛らんど

今回辿ったルートは2日もあれば十分に周れます。こう考えると、義経は八戸に定住する予定だったのかも。海産物が豊富だし、とても居心地が良かったのでしょうね!

『八戸・義経北行伝説おひとり旅』はいかがでしたか??

良かったら、義経が辿ったルートを辿った私のルートを辿ってみてください(笑)

めぐった場所のマップも興味あればコチラからご覧いただけます⭐⛩
車で行くのがおすすめです

【参考資料・HP】
・義経 北行伝説の旅 著者:伊藤孝博/無明舎出版
義経北行伝説ドライブガイド義経は北へ 岩手県県北広域振興局/岩手県沿岸広域振興局
法霊山龗神社HP
法霊山龗神社【公式】インスタグラム

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