源義経の愛した静御前とはどんな性格?白拍子は遊女?彼女の生涯とは・・

静御前 性格 どんな人  美人
ぷーとん

源義経の静御前って有名だけど、なのになんで人気があるの?

愛らんど

それはね、静御前はめちゃくちゃ『いい女』だったからですよ💖

※この記事では、歴史書の『吾妻鏡あづまかがみ』、軍記物語の『平家物語』『義経記ぎけいき』、その他『地域伝承』から語られる静御前(しずかごぜん)の人物像と生涯をわかりやすく紹介いたします。

悲劇の英雄といわれる源義経は判官びいきといわれています。

同じく悲劇的な最期を迎える静御前も、後の世で武家の女性たちからも尊敬され愛されていたため静御前びいきなどといわれます。

判官びいきとはなんたるか?はコチラの記事で

そんな人々のひいき目がありつつ語られる静御前とは、一流の白拍子であり、美貌と知性を兼ね備えた誇り高い女性でした。

目次

静御前の生涯とは


静御前は平安末期から鎌倉初期にかけて生きた女性です。

母は名のある白拍子(しらびょうし)の磯禅師(いそのぜんじ)で、静も幼い頃から舞芸や和歌を教え込まれ一流の白拍子として成長しました。

白拍子とは?

主に男装遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。

素拍子
とも書き、この場合は無伴奏の即興のを指す。

男装というのは、白い直垂水干立烏帽子、白鞘巻のをさす装束のことで (後に水干のみ)、その姿で当時流行のや舞を披露した。

古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。

神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。

白拍子は神に仕える巫女が起源ですが、平安時代は芸能人やアイドルのような立ち位置だったのでしょう

寿永3年(1184)源義経が【一の谷の合戦】で勝利し京へ入ると、間もなく2人は付き合うようになります。

文治元年(1185)義経は頼朝との仲違いから追われる身となり、一緒に逃げます。

逃避行のすえ、吉野山での山越えで女人禁制を理由に静と義経は泣く泣くここで別れてしまいます。

この先2人は再会することはなく、義経と一緒にいたのは1年9カ月という短く儚い日々でした。

そのあと義経の追ってに捕まった静は、京に送られたあと頼朝のいる鎌倉へ母の磯禅師と共に護送されます。

きびしい尋問にあっても義経の行き先は分からないので答えようがありませんでした。

その時、静は義経の子を身ごもっていました。

頼朝は「女の子であれば救うが、男の子の場合殺す」といわれ、その後出産した子は男の子であったため由比ヶ浜の海に沈められてしまいます。

文治2年(1186)産後の回復後に、母と京に帰されることになりました。

京に着いてからの消息は不明となっていますが、全国各地に静御前のその後の足取りに関する伝承が残されています。

静御前のエピソード

sakura


静御前にまつわるエピソードから、彼女がどのような人物だったのかを推測します。

神がかりの雨乞いの舞

京で干ばつが続いたので、後白河法皇は神泉苑に100人の15歳以下の未婚の白拍子を集め雨乞いの舞をさせました。

舞を一人ずつ披露させましたが、99人踊っても雨が降る様子はありません。

そして、100人目で白拍子ナンバー1美女の静御前が舞いはじめると曇りはじめ雷雨が三日三晩降り続いたそうです。

後白河法皇から日本一の宣旨を受け、「彼女は神の子か?」と言い称賛したとのことです。

静御前は持ってる(ツイてる)タイプの女性であった(義経と出会うまでは・・・)

通い婚の世で同棲をはじめる


信じがたいことですが、義経は京にいる間、正室の郷御前が嫁ぎに入京した他に側室のような慕う女性たちが24人いたという逸話があります。

戦が上手い彗星の如く現れた源氏の息子は、京の人たちにとってはスターのような存在だったのでしょう。

当時の結婚は通い婚といって、同居はせずに妻の家にたまに夫が来てしばらく居ては実家に帰るというスタイルだったようです。

そんな中、静御前とは六条堀川の源氏の館で同棲をしていたとのこと。

白拍子のトップスターであった静御前との恋愛は別格

土佐坊昌俊の闇討ちを察知

頼朝の命令で鎌倉に入れてもらえず京に戻った義経に対して、さらに義経暗殺の刺客として土佐坊昌俊が送られました。

先に情報をキャッチしていた義経は、土佐坊昌俊が京に来たらすぐに問いただす。

あわてた土佐坊昌俊はそんな事はしないと起請文(誓約書のようなもの)を書いて渡してきたので義経は安心して酒を飲んで寝てしまいます。

静御前は怪しく思い土佐坊昌俊の宿を下女に調べに行かせたところ、宿の前に馬や装備した武者が数十人集まっていたと報告を受け義経のところへ夜襲をかける気だと察知しました。

すぐに義経をたたき起こし武具を準備させ、そのあと夜襲をかけてきた土佐坊昌俊を逆に返り討ちにしたそうです。

静御前は物事を見極める能力が高い!

鎌倉で命をかけた舞を披露


吉野山で義経と別れたあと捕まり、鎌倉で幽閉されていた静御前は妊娠6ヶ月でした。

そんな中、頼朝から鶴岡八幡宮で神事として舞を披露するよう命じられました。

愛する義経の仇である頼朝や、敵陣の真っただ中で踊ることなんて屈辱的で絶対にやりたくありません。

身重を理由に何度も断りましたが、許してもらえず舞うことになります。

しづやしづ しづのおだまきくり返し    昔を今に なすよしもがな
(静、静、と名を呼んでくれた懐かしいあの頃に繰り返して戻りたい・・)

その場でなんと、義経への想いを歌います

もちろん激怒した頼朝でしたが、同じ立場の女として理解した政子がたしなめて収まりました。

こんな歌を歌えば殺されるかもしれませんが、死ぬ覚悟で頼朝を挑発した彼女の覚悟が感じられます。

静御前は屈しない強さ、即興の替え歌を歌う聡明さを持つ

平泉に残る静御前の手紙

静御前が京に戻った前後が不明ですが、義経へ宛てた手紙が残っています。

『平泉志』という本によると、岩手県の平泉にある『義経堂』には静御前が義経に宛てた手紙が残っていたそうです。

しかし火災で燃えてしまったようですが、その手紙は『静女之書』と題名でとても達筆な文字だったとのこと。

この時代に文字を読み書きできる人は貴族や公家階級の人たちくらいでした。

静御前は白拍子という職業がら皇族や公卿たちを相手にするため、作法だけでなく教養も身についていたことでしょう。

離れ離れになっても義経を慕い続けていました。

静御前は教養高く、とても一途な女性

まとめ

これらのエピソードから、静御前の人物像とは

  • 後白河法皇からも認められる白拍子
  • トップスターの静御前が選んだ相手が義経
  • 教養があり勘も良く腹がすわっている

なかなか、気位が高そうで完璧主義な女性と見受けられますね🌸

しかし、数々の男性を見てきた静御前が選んだ義経という男はどれほどのイケメンなのでしょうね!

義経ってどんな人だったのか??はコチラ

愛らんど

静御前にとって義経は、類を見ない純粋で真っすぐな人であったのでしょう。

ぷーとん

静御前の生き様、かっこ良い!

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