【蝦夷えみし】ってどんな人たち?日本人じゃない人が東北にいたの?
そもそも、日本という国や日本人という概念すらあやふやな時代。東北で生活していた人たちを大和朝廷は一方的に蝦夷と呼んでいたのです。
- 蝦夷征討の流れ
- 蝦夷とはなにか
- 阿弖流為という人物
↑について東北側目線でご紹介したいと思います!
蝦夷征討(征伐)のはじまり
大和朝廷は、大化の改新(645年)以降から日本を強国とし、
外国と渡り合うために律令国家形成を武力で推し進めていきました。
当時の東北は、『日高見国ひたかみのくに』と呼ばれていました。
ある時、東北で金が産出されます。
奈良の大仏建立に金が不可欠だったため、朝廷は東北侵攻を強めていきました。
それから東北地方は何度も朝廷軍に攻められ続けますが、
朝廷軍何万という兵力に対して、蝦夷側は少ない兵力で何十年も戦い続けたのでした。
蝦夷(えみし)とは
【清水寺縁起絵巻】
4~5世紀頃に西日本で誕生した大和王権は、
勢力外の地域に住む人々を異民族と見なして、一方的に『蝦夷(えみし)』と呼んでいました。
大和政権の支配は広がっていき、
奈良時代になると残った東北・北海道地方に住む朝廷に従わない人々を、
まつろわぬ民=蝦夷と呼ぶようになります。
【日本書記】に記された蝦夷
『日本書紀』の景行天皇紀、
武内宿禰が北陸・東方諸国を視察してこう伝えましました。
東の夷の国に日高見という国あり。
その国の人々は男女とも髪を高く結い体に文身(いれずみ)をし勇敢である。
それらを蝦夷という。
村には長がおらず盗み合い山には邪神や姦鬼がいて人々を苦しめる。
鳥のようにと飛び獣のように走り未だに朝廷に従わない。
国は沃壌えて広し、撃ちて取りつべし。
清水寺縁起絵巻では蝦夷は鬼や獣の姿で描かれることから、
当時の中央側の人々の蝦夷観は人間ではなく獣のように思っていたのでしょう。
どちらにせよ古事記・日本書紀にある、
土蜘蛛や熊襲や隼人といった自分たちに従わない先住民を、
蛮族(鬼)と蔑むのが勝者側のお決まりとなっているようです。
実際に、蝦夷と呼ばれた東北・日高見国の人々はどのような文化を持った人たちだったのでしょうか。
阿弖流為(アテルイ)とは
大和政権に抗った最後の蝦夷として歴史上に登場し、
儚く散った英雄・阿弖流為(アテルイ)とはどのような人物だったのでしょうか。
大墓公阿弖流為とは、奈良から平安時代にかけて活躍した胆沢(いさわ)現・岩手県奥州市を本拠地とする蝦夷のリーダーでした。
※以後アテルイとします
大和朝廷から征夷大将軍として派遣された坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)との対決を、
物語や鬼退治伝説でよく語られております。
延暦7年(788)『続日本紀』でアテルイの名が登場します。
アテルイはこの地域に住む人々と、
自分たちの尊厳を守るため立ち上がり戦い続けました。
それから14年後の延暦21年(802)に坂上田村麻呂の懐柔策によって降伏し、
盟友の盤具公母礼と共に平安京へ連れていかれ、河内国杜山で処刑されてしまいます。
悪路王のモデルはアテルイ?
悪路王とは、陸奥国における伝説上の人物です。
吾妻鏡では蝦夷の首長で、
坂上田村麻呂に征伐される鬼や悪者として描かれています。
そして、鹿島神宮に納めされている木製の面『悪路王の首』は
蝦夷の英雄・アテルイと言われております。
その悪路王の首は大陸系の漂流民族オロチョン族の首領という見方もあるようで、
これは、、東北民族史において驚きの展開だと思うのですが・・蝦夷は大陸系のオロチョン族???
蝦夷と呼ばれた東北の人々とは、
馬に乗り、鉄の技術を持ち、蕨手刀(わらびてとう)で戦うゲリラ戦の得意な騎馬民族だったのです。
だから少数精鋭でもめちゃくちゃ強かったのでしょうか?
しかし坂上田村麻呂英雄伝と対比して、悪路王や鬼とされた蝦夷の首長たちは、
かなり悪い奴らのように伝承されています。
郷土を愛し守ってくれた先祖を、蔑むような歴史は真実と思いたくないのですが・・
東北史を語るうえで、製鉄技術を持った騎馬民族が東北にいたという事実は、古代の中央政権にとって都合が悪いことなのかもしれません。
古代に大陸や半島の亡国の民が、大量に(何百万人も)日本列島にやってきていたのだとしたら。
天皇は、日本人のルーツは・・・古代日本史の謎を解く鍵となりそうですね!
悪路王伝説はここにあり!
蝦夷VS朝廷軍の戦歴
今から1,200年前の宝亀5年(774)から弘仁2年(811)まで、
東北地方の蝦夷たちは大和政権に38年間も抵抗し続けました。
これを『38年戦争』と言います。※38年騒乱とも言う。
8~9世紀にかけて朝廷軍は何度も何万という兵を東北へ向けます。
その度に蝦夷側の大勝利もありましたが戦は何年も続き、
朝廷軍だけではなく蝦夷軍も多大な犠牲を伴い疲弊していきました。
それぞれの地域を部族長という長が取り仕切っていたので、
朝廷側に屈する部族もあったり一枚岩では無かったようです。
それと言うのも、
坂上田村麻呂は征夷大将軍という武官として有名ですが、
実は、武力ではなく
仏教の布教・関東や西日本の文化を教えて巡回し、蝦夷と融和していったとも言われています。
- 天平感宝(749年)陸奥国小田郡(湧谷町)で金が産出🔸奈良の大仏建設と都の遷都で資金を必要とした大和朝廷は東北の資源に目をつけ東北征伐を強行する
- 宝亀5~8年(774~777年)蝦夷が桃生城を攻撃🔸ここから蝦夷の防衛戦争が始まる、朝廷軍の兵2万7000🔸紀広純が陸奥守・陸奥国按察使・鎮守府将軍を歴任
- 宝亀11年~天応元年(780~781年)伊治呰麻呂の反乱🔸蝦夷だが朝廷側に従っていた伊治城の伊治呰麻呂が反乱を起こす🔸多賀城が焼かれ紀広純が討たれる🔸次の征東大使は大伴家持で朝廷軍の兵数万に対して胆沢の蝦夷・吉弥候部伊佐西古たち4千の蝦夷が迎え撃つ
- 延暦8年(789年)巣伏の戦い🔸征東大使・紀古佐美が坂東兵5万2800を引き連れ、アテルイをリーダーとした蝦夷連合軍3000と対決🔸圧勝した蝦夷側は多くの村を焼かれたが戦死者89人、朝廷軍側は戦死者1061人だった
- 延暦15~19年(796~800年)坂上田村麻呂が陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守将軍兼任🔸征夷大将軍の坂上田村麻呂は城柵の建設や駅の整備をしていく、関東や越後などから人々を伊治城へ移住させる🔸蝦夷に仏教の布教や養蚕を教え、衣食住の知識を教えてまわった🔸税の免除などから朝廷側に帰順する蝦夷が次々と現れる
- 延暦20年(801年)蝦夷が帰順?🔸『日本紀略』によると、坂上田村麻呂からの報告で「夷賊を討伏す」とだけあった
- 延暦21年(802年)アテルイ・モレの処刑🔸田村麻呂、胆沢城の造営、翌年には志波城も造営🔸アテルイと母礼が500人の仲間を引き連れて降伏🔸アテルイとモレは京の都へ連れていかれる、坂上田村麻呂は2人の助命を嘆願したが公卿に聞き入れられず河内国(大阪)で斬首される
- 弘仁2年(811年)文室綿麻呂の征討🔸文室綿麻呂が征夷大将軍となる🔸陸奥国・出羽国の俘囚2万を動員してにさ体(岩手県二戸から青森県南部)・弊伊(岩手県上閉伊郡・下閉伊郡)に軍を進め降伏させる🔸和賀郡、稗貫郡、斯波郡が設置され翌年は徳丹城が建造される
坂上田村麻呂に降伏した理由
戦歴を見るとアテルイたち蝦夷軍は、
物量がある朝廷軍に一歩も引いてはいないように思えます。
現に、坂上田村麻呂が鎮守将軍についてから戦を仕掛けるというよりも
土地の整備や植民に力を入れているようです。
田村麻呂は蝦夷たちに歩み寄って信頼を得る作戦に出ていたのです。
そしてアテルイら族長は、無駄に人々の命を犠牲にするより
共存していく道を選んだのかもしれません。
もちろん講和の話は田村麻呂から何度も持ち掛けられて
蝦夷側が妥協したのでしょう。
アテルイとモレが京まで行ったのは、
田村麻呂を信じて朝廷と講和会談をするつもりで平安京まで赴いたのだと思います。
「日本紀略」で、
田村麻呂、阿弖流為、母礼の二人を連れて七月十日帰京する。
同年七月二十五日、百官表を抗して、蝦夷平をぐるを賀す。
とあり、蝦夷平定の祝賀会を開催したようです。
その後に朝廷はアテルイとモレの処刑を決定し、
田村麻呂は処刑に反対したが貴族たちは聞き入れず。
同年八月に河内国杜山で斬られ、2人の遺体はしばらく都人にさらされ哀しい最期となります・・。
東北での坂上田村麻呂英雄伝が凄まじいのは、
田村麻呂が蝦夷と同じ渡来系移民であったこと。
そして仏教よりも先に、
平和を願う観音信仰を東北へ持ち込んだ人とも言われているようです。
まとめと感想
今回の記事でわかったこと。
- 蝦夷とは、大和政権側から一方的に見た先住民を指す言葉
- アテルイとは、岩手の胆沢地域の族長でとても勇敢な人物
- 坂上田村麻呂とは、仏教や技術を教えて蝦夷と交渉していった人物
- アテルイが降伏した理由とは、坂上田村麻呂の交渉で従うよりも共存共栄の道を選んだ
亡くなってから1200年経った今でも、
アテルイたちを誇りに思い心打たれる人々が多くいます。
京都・清水寺に『阿弖流為と母礼の碑』が、
岩手県のアテルイの本拠地だった胆沢にも慰霊碑が建立されました。
次々に送り込まれてくる朝廷軍に対して、
少ない人数で自分たちの文化と誇りを守る為に
抵抗し続けたアテルイとモレに勇気をもらいます。
時代は違いますが「長い物には巻かれろ的」な風潮に対して、
信念を貫こうとするアテルイたちはとてもかっこ良いです。
現代の日本人は長い歴史の中で混血し文化を形成しているので、古代の蝦夷とはすでに人種が違うといえます。
しかし、戦後(昭和20年以降)失った何か・・・日本人としてのアイデンティティに誇りを持って生きるということを思い出させてくれる存在だと感じます。
【参考資料・HP】
・北天鬼神-阿弖流為・田村麻呂伝 著者:菊池敬一/岩手日報社
・東北謎とき散歩 著者:星亮一/廣済堂出版
・奥州市埋蔵文化財調査センター
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