【蝦夷】とは誰か・・。鬼の足跡を追え!その1

蝦夷とは何者なのか。鬼の足跡を追え
ぷーとん

また【蝦夷えみし】ですか?

愛らんど

岩手にいた先住民、蝦夷が蔑(さげす)まれ敗北したという歴史認識をくつがえしたいと思いまして。

この記事の内容★

古文献、神社歴史、地質学、考古学と当時の近隣国の政治情勢から、日本書紀から見る蝦夷像とは違う東北にいた蝦夷の正体を読み解きます・・

目次

『日本書紀』以外に蝦夷は存在しない?

日本書紀

東北にいると言われた先住民の【蝦夷えみし】とは。

日本書紀の景行天皇記によると、蝦夷とは東の夷の国に住む未開人のように説明されています。
以下参照↓

ところが、日本書紀に近い時代に記された『古事記』や『風土記』には蝦夷は登場しないらしいのです。

日本書紀や続日本紀による蝦夷とは(7世紀中ころまで『毛人』と表記されていた)

まつろわぬ民・・国家に従わず抵抗し続ける人たち

という大和朝廷目線からの人々を言うようです。

では、『日本書紀』とはどんな性格を持った書物なのでしょうか。

日本書紀とは・・奈良時代に成立した日本最古の正史といわれ、養老4年(720)に編纂されたものです。正史とは正しい歴史ということではなく、国家が正式に作った歴史書ということのようです。すべて漢文で、神代の時代から持統天皇の時代までが記録されています。

養老4年(720)に編纂されたことになっておりますが、証拠はありません。

日本書紀が編纂された経緯として、国家形成(律令制)と正史編纂が同時期に始まっていることから、対外向けに(当時の中国:唐へアピールするため)作られた歴史書といわれています。

日本国の歴史を長く一つの国として成り立っているように見せるために、隣国の歴史書も参考にして編纂されたそうなので創作や他国の歴史の要素も入り混じっているように思います。

そして、古代中国では中華思想から朝廷に帰順しない周辺民族を夷狄(いてき)と呼んでいました。

その一つに東方に住む人々(中国東北部、朝鮮半島)のことを『東夷』を総称し中国の歴史書にたびたび登場します。

しかも『後漢書・東夷伝』(紀元〜150年ころ)に倭国の記述もあり、古代中国からみたら日本も東夷だったようです。

日本書紀における『蝦夷』とは、中華思想を真似て大和政権中心思想の創作だとしたら、、。

蝦夷と蔑まれた人々は、古代東北に存在したのか?鬼と揶揄された先住民は本当にいたのでしょうか。

蝦夷の時代6世紀〜7世紀

奥州市の神明社
岩手県奥州市の神明社境内

蝦夷という名が歴史書に登場する時代は6世紀から7世紀頃です。

5世紀後半の中国の史書『宋書夷蛮伝・倭国条』では毛人(もうじん)と記され、大和朝廷からみて東国(あずまのくに)に住む人々を指していました。

その後『日本書紀』にて↓

  • 斉明天皇5年(659)東北の蝦夷男女二人を唐に朝貢し献上した

と記述があり、ここで蝦夷(えみし)の名が登場します。

蝦夷のいた時代の6世紀から7世紀頃の日本と周辺国はどのような情勢だったのでしょうか

日本という国名が成立した時期は実際によく分かってはいませんが、大宝律令(701年)を制定した時期とされています。

それまで、中国の歴史書でこの国は【倭わ】【倭国わこく】と呼ばれていました。

朝鮮半島と倭国は、距離も近いこともあり交易があったことはよく知られており、日本書紀によると倭国は朝鮮半島南部の任那(加羅国)が交易の拠点となっていたようです。

そして、文化や技術もほぼ朝鮮半島を経由して日本に持ち込まれたと言われています。

日本の律令国家が始まる少し前の朝鮮半島では、新羅・唐の連合軍によって660年に百済滅亡、668年に高句麗が滅亡し朝鮮半島は新羅統一国家になりました。

倭国といえば、6世紀中頃に新羅に滅ぼされてしまった任那(加羅国)に続いて同盟国の百済を失いたくないので支援という名目で数万という兵を送っています。

当時の任那(加羅国)は複数の小さな国であり、倭人も住んでいたといわれる

それが倭国・百済連合軍と唐・新羅連合軍の『白村江の戦い』(663年)で、結果は倭国・百済連合の大敗です。

  • 任那(加羅国)新羅に併合(562年)
  • 百済の滅亡(660年)
  • 白村江の戦い(663年)
  • 高句麗の滅亡(668年)

朝鮮半島の三国時代、ごちゃごちゃしていたようですね。

朝鮮半島を統一した新羅は935年に滅亡しました

倭国も朝鮮半島南部に拠点があったことや、百済と友好関係にあったりと密接に関わりが強かったようです。

そうなれば、隣国の亡命者が大量移民として倭国にやってくるのは明白でしょう。

東国にやってきた渡来人とは

埴輪

日本に渡来人(帰化人)がやってきたということが日本書紀や続日本紀にしっかりと記述されているようです。

渡来してきた人々の情報を時系列に私が要約してまとめると・・

  1. 666年に百済の男女2千人余りを東国に移住
  2. 684年百済の僧尼23人を武蔵国に移住
  3. 687年高句麗人56人を常陸国に移住
  4. 同年、新羅人を14人を下野国に移住
  5. 同年、高句麗人の僧侶・百姓含む男女22人を武蔵国に移住
  6. 689年新羅人を下野国に移住
  7. 711年上野国の帰化人のために多胡郡を設置
  8. 716年駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高句麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置
  9. 758年新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させ、はじめて新羅郡をおいた

常陸国→茨城県、下野国→栃木県、武蔵国→埼玉・東京・神奈川の川崎市、駿河→静岡県、甲斐→山梨県、相模→神奈川県、上総・下総→千葉県、
※多胡郡は群馬県にあった郡、※高麗郡は埼玉県にあった郡

日本に朝鮮半島からの渡来がたくさん発生した時期であったようで、そのほとんどを今の関東圏へ移民させたと記録があります。

実際に埼玉県日高市のホームページを見ると、716年に関東各地(当時の7カ国)に住んでいた「高麗人」1,799人が武蔵国に集められ、「高麗郡」ができたとあります。今でも高麗(こま)とつく地名や、高麗神社、高麗川などが名残りとしてあるようです。

高麗郡が設置された数十年後に、武蔵国には「新羅郡」も設置されており、新座郡(にいくらぐん)→新座市(にいざし)と名称を変えて現在も残っています。

下野国や武蔵国に移住した新羅人がおりますが、新羅は朝鮮半島を統一して国内は安定しているかと思いきや『新羅本紀』の記述によると、745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生していたようです。

社会が疲弊し、民間人も次々と日本列島へ渡来してきたものと想像ができます。

個人的に、、この新羅人とは任那(加羅国)が新羅に併合された時の倭人も多くいたのではないか?と勝手に想像してます

ぷーとん

時代は少しずれるけど、奈良時代に日本で発生した疫病が大流行したことと関係が無きにしもあらず??

なぜか百済郡は東国にはありませんが、摂津国(大阪府)にかつて存在したことがあったそうです。現在はあまり地名としては残っていないようですが。。なぜ?

上野国(こうずけのくに、かみつけのくに)とは群馬県のことであり、多胡郡という地名はかつて群馬県南部に残っていたようです。

ちなみに律令制以前の群馬県と栃木県は毛野国(けのくに)と呼ばれていて、古代氏族の上毛野氏(かみつけの)と下毛野氏(しもつけの)に別れ上野(こうずけ)下野(しもつけ)とそれぞれ国名を改めたとあります。

現在も群馬県と栃木県の県境あたりを両毛地域と呼びますし、群馬の名物【上毛かるた】が有名ですね。

ぷーとん

東国に住む毛人(もうじん)って、、そのまんま毛野国に住んでいた人々を指しているんじゃ。。毛って何?

6世紀から7世紀に北関東に住んでいた人々は、ほぼ朝鮮半島から移住してきた渡来人であったようです。

そしてと呼ばれる地域に住んでいることから、

毛人(もうじん、えみし)

⬇️イコール

蝦夷(えみし)

と同じ見方ができるのでは。

蝦夷とは亡国の民である高句麗人・百済人・新羅人を総称して呼んでいたということではないでしょうか。

愛らんど

次回は北関東にいた渡来人がもたらした文化や技術、東北地方のと呼ばれた人々との共通点をあげていきたいと思います。

【参考資料・HP】
・蝦夷とは誰か 著者:松本建速/同成社
いわての文化情報大辞典HP
・奥州市埋蔵文化財調査センター

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