【蝦夷えみし】と6〜7世紀頃の関東地方とどんな関係があるの?
【蝦夷えみし】とは、関東から移住し東北の原住民と融合した渡来系馬飼集団のことである!
前回の記事
古文献、神社歴史、地質学、考古学と当時の近隣国の政治情勢から、日本書紀から見る蝦夷像とは違う東北にいた蝦夷の正体を読み解きます・・
渡来人はなぜやってきた?
朝鮮半島三国時代(高句麗・百済・新羅)の4世紀〜7世紀あたり、高句麗の南下で情勢不安定な百済・新羅・任那はそれぞれ【倭国】に援助を求める様子が『三国史記倭人伝』や『日本書紀』に記されています。
朝鮮諸国それぞれの王から倭国の王へ、「質(むかわり)」と呼ばれる人々が何度も渡来していました。
(質→人質のこと)
その代償として倭国からは政治的・軍事的な協力を目的とするもので、代わりに倭国は朝鮮半島の馬飼や製鉄技術を獲得することができたのです。
中には王族もいたり、他は五経博士など専門知識集団が多くいたようです。
む‐かわり ‥かはり【身代・質】みがわり。人質 (ひとじち) 。「百済 (くだら) の王義慈、王子豊章を入れ奉りて—とす」〈舒明紀〉
goo辞書より
この時代高度な技術を持った渡来人が5世紀前半に集住していた事が、奈良県御所市の南郷遺跡群で発掘されています。
葛城地域には鍛冶・ガラス・石製の玉などの生産を行っていたらしい。
このように5世紀初頭から倭国は朝鮮三国との外交政策として、国力を上げる為にも渡来人の受け入れは優先的行っていたようです。
これは渡来系の技術者集団が増加した時期でもあり、日本列島に巨大前方後円墳が造営され出した時期と重なります。
北関東と東北をつなぐもの
古墳といえば近畿地方が主流と思われますが、なぜか東の関東も古墳の数が多いのです。
7世紀頃になると、大和政権側で朝鮮半島からの渡来人を関東に移住させる政策をとったことが日本書紀に記されています。
前回の記事参照↓
渡来系の技術者たちを空いている地域へ入植させ開発させていったことで、地方の有力豪族が誕生したのでしょう。
しかし古代から中央政権を通さない朝鮮半島と北陸とを繋ぐ日本海ルートがあることから、地方豪族や民間人ベースで人やモノの交易があったようです。
上毛野地域(群馬)はその名の上毛野氏(かみつけのうじ)の勢力となっていました。
何かしらの事情から、移住地を東北の方へのばしたことで阿弖流為(あてるい)のような蝦夷と呼ばれる存在にされた可能性があります。
特に大きな古墳や馬形埴輪の出土数ナンバー1の群馬県に注目してみて、毛野国群馬の風土の特徴と岩手の蝦夷が住んでいた地域の類似性をあげてみます。
群馬は馬の国?
日本に朝鮮半島から馬が持ち込まれたのは5世紀頃といわれ、大阪の河内地方に馬飼技術を持った渡来人が大量に定着したという記録があります。
そして馬を生産し軍馬として朝鮮半島に輸出していたという記述が日本書紀にはあるようです。
5世紀前半の同じ頃に長野県飯田市や、5世紀後半の群馬県高崎市で馬の骨が発掘されています。
この地域は浅間山や榛名山などの活火山があり、古代に何度も大きな噴火がありました。
その為しばらく人が住めない時期もありましたが、古墳時代に馬飼の渡来系入植者がこの群馬の地にやってきたのではないかと推測。
なぜなら、火山灰は酸性土壌の黒ボク土となり、そこは牛や馬の餌となる草地になるので、馬を飼うには適した土地であったようです。
面白いことに百済系の土器・ガラス、新羅系の金銅冠と靴、武具、馬具、伽耶系の耳飾りなど朝鮮半島のそれぞれの国の遺物が出土されてるのです。
群馬県内の古墳から出土する副葬品に、必ずと言っていいほど馬具類が発見されるようです。
さらに平安時代には、上野国で9カ所の官牧(朝廷に献上するための牧場)があったそうだ。
【群馬】という地名からわかるように、群れを成した馬をたくさん飼っていた牧場地だったと想像できますね。
かつて榛名山のあたりは『久留馬(くるま)』という地名だったそうです
群馬の古墳群
古墳時代の群馬は、ものすごい数の古墳だけでなく埴輪(はにわ)・馬埴輪の出土が目を引きます。
馬による輸送・移動・土木技術と朝鮮半島への馬や馬具などの輸出で、かなり財力を得ていたと思われる上毛野の豪族は権力の象徴といえる古墳を多く残しています。
副葬品には銅鏡や勾玉などの装身具、古墳の周囲には人や馬などの埴輪が並べられてありました。
ドーム型の古墳の周囲に人形や馬、鳥型の埴輪を配置する雰囲気・・始皇帝の兵馬俑を彷彿させませんか?
大陸から朝鮮半島を経由して、日本に渡ってきた宗教観に感じられるのは私だけでしょうか。。
そして、馬と共に繁栄を極めていたであろう真っ只中に、自然災害により終焉を迎えた地域もあるようです。
6世紀初頭と中頃2回に渡って榛名山が噴火し、火砕物(ガスや火山灰など)によって覆われ埋められたままの状態で発見された遺跡があるのです。
鎧を着た人骨が発見された金井東裏遺跡では、家財道具がそのままの状態で埋没していた様子から、火山が起こり一瞬で人々が亡くなったという状況だと想像できます。
火山の噴火って一瞬で全てを奪うんだね。。
榛名山だけでなく、アイスランドの火山噴火(536年)によって世界規模の気象異変や疫病が発生した事件も関係ありそうです。。
岩手の古墳
岩手県にも前方後円墳はあったようで、日本最北と言われている前方後円墳として角塚古墳(奥州市)があります。
胆沢川の南河口付近に約5世紀後半突然集落が出現したようで、その西側には秋田県にまたがる焼石岳を中心とする焼石連峰に囲まれている地形となっています。
焼石岳という名でわかる通りかつては活火山だったようですね。
なぜ突然に出現かというと、1世紀〜6世紀は寒冷期で東北地方では暖かい場所へ人が移住したため人口希薄な状況だったようです。
角塚古墳にはめぐるように円筒埴輪・朝顔型埴輪、前方部には鶏形埴輪・馬型埴輪が並べられていたようで、古墳の被葬者はもちろん有力氏族だと思われます。
岩手では『蝦夷の刀』と呼ばれる蕨手刀が多数出土していますが、この時期の製鉄遺構は見つかっておりません。(鍛治遺構が見つかるのは9世紀頃から)馬を輸出する代わりが鉄製品(交易品)だった可能性もありますね。
その後岩手県南部では集落が減少していき、7世紀になると再び集落が増えはじめます。
そしてまた古墳文化社会と似た土器や住居が出現するようになりました。
群馬と岩手をつなぐもの
ここでざっくりとした私の考える馬飼技術者たちが移動したであろう時系列をまとめてみます。
応神天皇期、秦氏の弓月の君が百済から帰化したいと申し出、120県(数万人)の人々を迎え大和の葛城の土地を与えたとある(日本書紀より)
数万といわれる秦氏と呼ばれる人々が日本に大量移民した記述があり、この時が第一期の馬飼集団の渡来
●河内地域(大阪)を拠点
朝鮮半島への馬輸出産業が隆盛期となり、馬の牧畜に適した関東地方などへ範囲を広げる
同時に関東地方に巨大古墳が次々に造営される
●毛野国地域を拠点(群馬・埼玉・栃木・千葉)、東北地方にも広がる※最北が角塚古墳(奥州市)
丁未の乱(587)蘇我氏と物部氏の内乱が起き、国内の政治情勢が不穏になる
仏教推進派の蘇我氏の力が強くなると、古墳文化から寺院建築へ変化する
●馬飼の技術者たちは牧草地を求めて移動したり、移住した地にそのまま定着
大化の改新(645)により豪族を中心とした政治から天皇中心の政治になる
唐にならった律令制を取り入れたことで中央集権国家を目指し、地方豪族の領地が国の管理下に置かれる
白村江の敗戦により百済、その後高句麗の滅亡により第二期の馬飼集団の渡来となる
●関東はじめ多方面に移住する※岩手県南部に集落が増える
都を平城京へ遷都(710)中央政権は東北へ進出し対蝦夷政策を行い、多賀城の柵(宮城県)などを造営し国司を置きはじめる
●東北地方の開拓として関東の馬飼技術者もたくさん移民する
国家としてまとめる為に東北地方に進出したのはわかるけど、ここで蝦夷の反乱ってやつがあったのね?
そもそも蝦夷という原住民がいたのか?って疑問が生じる。。ほぼほぼ馬や農耕技術を持ってきた渡来系の移民ですよね
もちろん古墳文化が流入する前から暮らしていた原住民はいたと思われますが、寒冷期の東北では小さな集落が離れた場所に数軒ある程度なのではないかなと予想しています。
群馬と岩手、古墳周辺の出土品を簡単に比較するとほぼ同じ
比較するべきは末期古墳の墳墓ですが、岩手の7世紀以降の古墳は縮小したものが多く王族と呼べるような広範囲を治める豪族はいなかったのではないかと思われます。
東北に元々暮らしていた人たちの文化と融合し、地域独自の古墳社会を形成していったのでしょう。
陸中一宮【駒形神社(こまがたじんじゃ)】
奥州市にある『陸中一宮・駒形神社』のご由緒に群馬と岩手がつながる記載があるのです。
上古の代、関東に毛野一族が台頭し、赤城山を崇敬し、赤城の神を祀って上野平野を支配したが、後に上毛野国と下毛野国に分れ、下毛野氏は日光火山に二荒山神社を創建。上毛野・下毛野氏は、勢力を北にのばし、行く先々に祖国に習い、休火山で外輪山を持つ形のいい山を捜し出し、連山の中で二番目の高峰を駒ケ岳又は駒形山と名付け、駒形大神を奉祀した。奥州にも及び、胆沢平野から雄姿を目にし、山頂に駒形大神を勧請し、駒ケ岳と命名した。これは、上毛野胆沢公によるものであり、時は雄略天皇の御代(456年ころ)であった。
陸中一宮駒形神社HPより抜粋
上毛野氏が奥州市にやってきて駒形様を勧請したとあり、駒形神社の奥の宮は現在も駒ヶ岳山頂に鎮座しております。
ちなみに『駒形』の駒(こま)とは、当時の朝鮮半島の高麗朝を指すとも馬を指すともいわれています。
高句麗出身者や火山を目指してこの地にやってきた馬飼の人たちが祀る神社であるなら、どちらも意味合いが通じますね。
岩手は現在も『馬っこ』と縁が深い地域ですし、元祖:馬の国群馬とこんなカタチで繋がっていたことに感動しました。
東国武士が強い理由は馬にあったんですね⭐︎
まとめ
蝦夷とは何者なのか・・。を探し求めていたら、馬と火山と朝鮮半島からの移民というキーワードでつながってしまった感じです。
蝦夷の正体とは、東北の原住民と融合した渡来系馬飼集団のことであった。
以下まとめ
- 倭国は朝鮮三国との外交政策として渡来人技術者を受け入れていた
- 馬輸出産業が大当たりとなり地方豪族(渡来人)が台頭し巨大古墳の登場
- 大化の改新により地方豪族の支配の終焉
- 朝鮮半島からの渡来人が関東圏に大量移住
- 東北地方の開発のため関東の渡来人が大量移住
では、坂の上田村麻呂とアテルイ(鬼伝説)の真相とは・・
白村江の敗戦から中央政権は対中国(唐)に備えて急速に国家を形成(支配領域を拡大)する必要があり、関東にいた渡来人と馬、製鉄、文化、信仰全てを持っていき東北を開拓していった。
そして寒冷期で岩手は人口が少なかったが、8世紀には牧草地以外の場所にも人口が増加するようになる。
ちょっと待って、坂上田村麻呂とアテルイの歴史は存在しなかったってこと??
その【朝廷軍VS蝦夷】というのは、恐らく蘇我氏の力が絶大だった時代に力をつけた渡来系の地方豪族と乙巳の変(645)で蘇我氏を暗殺して力を持った勢力・・藤原氏の指示による東北での決着だったのではないか・・?という見解です。
私は、「そう簡単に律令国家に組み込まれてなるものか!」という自由意思を持った誇り高き戦士が実在していたと信じています。
ただ、たくさんの技術や文化とともに古墳文化を築いた人々と、東北を開拓していった人々は多分同じなのに、【蝦夷えみし】と呼ばれ朝廷軍に討伐されたという歴史が残されていることが解せないですよね。
あくまで自分を納得させるための素人見解ですが、、日が昇る東の最果てである日本という島国は、亡国の渡来人集団の受け皿であったのかもしれません。
渡来系氏族たちで再編成して国を建国し再出発したという事実を隠すため、あえて国に従わない敵のような存在を創作したのではないでしょうか?(元から国が存在してあるかのように見せるため)
日本書紀の編纂とは、まさに日本が国家としての権威を象徴するための書物なのです。
日本という国は移民を受け入れ、文化も信仰も技術も習合し全部ひっくるめた多民族国家🟰それが和の国であり日本人なのでした。
蝦夷も坂上田村麻呂も朝廷側の人間も同じ移民で、みんなシン・日本人なのであった・・という結論になりました!
日本書紀の信ぴょう性を問うなら、蘇我馬子、蝦夷、入鹿って名前がどうも怪しいよね・・
アテルイやモレが実在していたのか、本当のところは分かりません・・色々な考察があっても良いよねそれが歴史の面白さだもん⭐️
【参考資料・HP】
・蝦夷とは誰か 著者:松本建速/同成社
・馬が動かした日本史 著者:蒲池明弘/文藝春秋
・奥州市埋蔵文化財調査センター
・シルクロード渡来人が建国した日本 著者:久慈力/現代書館
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