日本各地に奇祭といわれる祭りは多々あると思いますが、過去に「ポスターがセクハラ」報道で全国的に名が知られるようになった岩手県の奇祭をご存じでしょうか?
その祭りは蘇民祭といい、「ジャッソージョヤサ!」という掛け声で裸の男たちが熱く疫病退散の儀式を行います!
どんだけセクハラポスターなの?そもそも『蘇民祭』ってどんな祭り??
ポスターは裸の男性の上半身が写ったものですが(蘇民祭 ポスターでググると出てきます)、そもそも『蘇民祭』とはどのようなお祭りなのかご紹介したいと思います。
岩手の奇祭『蘇民祭』とは
蘇民祭とは、岩手県の県南地域で1月から3月の間に開催される祭事です。
廃絶・中止した場所を含めると30か所の地域で行われておりました。
現在も行われている地域は約11か所あり、およそ1000年の歴史を持つ地元民に愛されているお祭りなのです。
岩手県すべての『蘇民祭』が無形民俗文化財に指定されており、黒石寺蘇民祭は『日本三大奇祭』・『日本三大裸祭』にランクインすることもあるようです☆
蘇民祭の由来
蘇民祭の由来は『備後国風土記逸文』によるものされています。
地域の伝承として残っているその内容とは以下の通りです。
『備後国風土記』(びんごのくにふどき)は、奈良時代初期に編纂された備後国(広島県)の風土記。
鎌倉時代中期、卜部兼方によって記された『釈日本紀』に、「備後国風土記逸文」として「蘇民将来」の逸話が伝存している。(Wikipediaより)
北海にいる武塔神(たけあきのかみ)が、南の海の女神に求婚するために旅にでる。
そこには将来兄弟が住んでいて、兄の蘇民(そみん)将来はとても貧しく、弟の巨旦(こたん)将来は家や蔵をたくさん持ち裕福だった。
武塔神はその夜の宿をお願いしたが、弟は貸してくれなかった。
兄の方は宿を貸してくれて、貧しいながらもワラを敷いて栗ご飯などでもてなした。
その数年後、武塔神は8人の子を連れて蘇民将来の前に再びあらわれると、「以前親切にしてもらった恩を返したいが、お前の子孫は家にいるか」とたずねた。
蘇民将来は「私の娘と妻がいます」と答える。
すると武塔神は「茅の輪をもって、腰の上に着けておくように」と言った。
その通りに茅の輪をつけていると、その夜に蘇民将来と妻と娘以外の村の者全員死滅した。
武塔神は「私は須佐之男の神である。次世に疫病が流行したら、蘇民将来の子孫と唱え茅の輪を腰につけている者は免れるようにする」と言った。
伝承は各地によって多少の違いはありますが、疫病から須佐之男の神に救われたという内容がほとんどです。
備後国風土記逸文によれば、武塔神は巨旦将来一家を殺したり、蘇民将来の娘以外は全員滅ぼしたと記述されています。
疫病が起こるのを知っていた武塔神は蘇民将来の子孫を絶えさせまいと助けにやってきたという結末の方が人々にとって都合が良いのかもしれません。
蘇民祭と似た風習
蘇民祭といえば岩手県特有の祭事と思われておりますが、全国各地でも似たような風習があるようです。
茅の輪くぐり
茅の輪はお正月に神社でよく見る光景です。
『年越し』と『夏越し』に行う大祓の神事にて、茅の輪をくぐることで半年分の罪穢れを祓うことができるとされています。
茅の輪は、チガヤという草を編んで束ねて大きな輪の形にしたものです。
この茅の輪くぐり、蘇民将来がルーツだったんですね。
しめ縄
『蘇民将来子孫家門』と書かれたものを魔除けや厄除けの護符として、玄関に下げるという風習が残っています。
国津神・スサノオ系の神社で授与されていて、お正月ではない時期でもしめ縄と一緒に飾られていたり『商売繁盛』や『家内安全』と一緒に書かれている地域もあります。
お札の他に、六角棒型の護符や将棋の駒形などもあるそうです。
いずれも厄除け招福のお守りとして、八坂系の神社で頒布されています。
岩手県の蘇民祭一覧【2023】
※2023年度も新型コロナウィルス感染拡大予防の為中止、もしくは規模縮小となる場合があるので直接お問い合わせください。
🔴胡四王蘇民祭(岩手県花巻市)
開催予定:1月2日
由来・・花巻地方に原因不明の難病が流行したことから、慶応元年(1865)より蘇民祭が行われるようになり、疫病退散、家内安全、五穀豊穣、村中安全を祈願する。
🔴興田神社蘇民祭(岩手県一関市大東町)
開催予定:1月第2日曜日
由来・・延元3年(1338)牛玉宝印を蘇民祭の夜、子どもの額に御判として押し無病息災を念じた。家族には白紙に押印したものを持ち帰り、身体を撫でて無病息災を祈った。
🔴毛越寺二十日夜祭(岩手県西磐井郡平泉町)
開催予定:1月20日
由来・・正月二十日は毛越寺常行堂の祭神『摩多羅神』の春祈願の日。明治35年(1902)に奥州市の黒石寺より蘇民祭が伝えられ、十日夜祭で開催された。
🔴伊手熊野神社蘇民祭(岩手県奥州市)
開催予定:1月第3土曜日
由来・・400年以上も前に江刺地区が大凶作になり、原因不明の疫病や火災が相次いで起きた。そこで黒石寺の蘇民祭を真似て始めた。
※追記:伊手熊野神社蘇民祭の保存会は2022.12月に解散を発表しましたので廃絶となりました…
🔴おらが村の永岡蘇民祭(岩手県胆沢郡金ヶ崎町)
開催予定:1月最終日曜日
由来・・昭和63年に金ヶ崎町は百年に一度といわれる集中豪雨に見舞われた。川が氾濫し多大な被害に遇う。災害から立ち上がるべく、黒石寺の蘇民祭や各地で行われている『水かけ祭り』と組み合わせ平成元年から始められた。
🔴光勝寺五大蘇民祭(岩手県花巻市石鳥谷町)
開催予定:旧正月・7日
由来・・建久2年(1201)元旦から七日まで国家安全、五穀豊穣、病魔退散、牛馬安全の秘法を時の住職が修行し、満願日の七日には護摩法要の加持を行いその時に配られた護摩餅を堂外の参詣者に与えた。これが年が経つうちに争奪が高まっていき蘇民祭が始まったと伝えられる。
🔴黒石寺蘇民祭(岩手県奥州市水沢区)
開催予定:旧正月・7日
由来・・『備後国風土記逸文』と同一。この逸話のもとは中国から伝えられたとされ、黒石寺では武塔神=須佐之男=薬師如来でもある。
※追記:黒石寺蘇民祭は2024年2月17日を最後に幕を閉じると発表されました…
🔴八幡宮加勢蘇民祭(岩手県奥州市水沢区)
開催予定:旧正月・8日
由来・・嘉祥3年(850)鎮守府に来た慈覚大師は、管内が疫を患い民庶死に尽くすといわれる程病災に見舞われていることを知り、八幡宮心経天会に大師が持っている疫病除けの護符(そみんぼう、又はカラス)を捧げ、八幡大神に祈った。
そみんぼうの由来は『大師が大病を患いしとき、夢に天より薬を送らる。形、マクワ瓜の如く、それを喰うとその味蜜のごとく甘味。これは三十三天不死の妙薬なりと、飲むこと三度。十日ほどして健康に、病を絶つことができた。(三大実録)』
このマクワ瓜の形に葉と花を添えて薬神の像として版刻し、正月七日夜おこもりして白紙に押し、八日早暁に国家安泰、悪魔退散、諸病消除の祈祷をして氏子の戸口に貼る。
この門には疫病、災害が入らないという。この薬神を牛頭天王、スサノウノカミとして『そみんぼう』というようになった。
🔴長徳寺蘇民祭(岩手県一関市藤沢町)
開催予定:3月第1日曜日
由来・・明治27年12月4日付けで、油島(一関市花泉町)から不動尊を当時の20円で譲り受けた際に、『蘇民祭』もついてきたそう。昔は正月27日から28日にかけて行われていて、昭和24から30年の7年間は蘇民袋争奪戦をしていた。現在は蘇民袋争奪戦が復活し、鬼子登りと柴燈木登りもそもまま行われている。
🔴早池峰神社蘇民祭(岩手県花巻市大迫町)
開催予定:3月17日
由来・・大同2年(807)瀬織津比売神を勧請し東根嶽大明神と崇め奉った。これが早池峰神社の創始。新暦3月17日は早池峰神社の春祭りの日で、昭和44年(1969)から五穀豊穣の祈願に合わせ蘇民祭を行うようになった。
🔴達谷窟毘沙門堂鬼儺會(岩手県西磐井郡平泉町)
開催予定:1月2、3日
由来・・達谷西光寺は坂上田村麻呂創建の達谷窟毘沙門堂の別当寺で、延暦20年(801)の開山。嘉祥年間(848~850)に慈覚大師の弟子彗海和尚より相伝の修正会(しゅしょうえ)を重要な神事としている。
明治の廃仏毀釈で蘇民祭は絶えていたが、2017年に復活した。達谷西光寺の修正会は毘沙門堂を根本道場に、元旦から八日まで執り行われる。鬼儺會(おにばらえ)は修正会の神事の中の一つである。
1000年以上の昔からある蘇民祭や、100年前に始まった地域もあります
『達谷窟毘沙門堂鬼儺會』は100年ぶりの復活です!
黒石寺蘇民祭『裸の男と炎の祭り』
令和2年度の『黒石寺蘇民祭』のポスターです❤❤カッコ良😍
- 旧暦正月七日 9:00『①五穀豊穣を祈る祈年祭』
- 22:00『②裸参り(祈願祭・夏参り)』
- 23:30『③柴燈木登り(ひたきのぼり)』
- 旧暦正月八日 02:00『④別当(べっとう)登り』
- 04:00『⑤鬼子(おにご)登り』
- 04:30『⑥蘇民袋争奪戦』
①五穀豊穣を祈る『祈年祭』
社務所の前で餅つき。民の無病息災、五穀豊穣を祈る祈年祭を行い境内を清める。その後に餅まき。
②裸参り(祈願祭・夏参り)
厄年の人や一般参加者が角灯を片手に持って参列。ふんどし姿など身体に一つだけ纏ることから真冬でも夏参りと呼ばれている。(昔は産まれたままの姿でやっていたそうです)
寺の前の瑠璃壷川(山内川)で水垢離をして、「ジャッソー!ジョヤサ!」の掛け声で、薬師堂、妙見堂を3周まわり五穀豊穣・災厄消除の祈願を行う。
③柴燈木登り(ひたきのぼり)
腰を低くして「イヨーォ、イヨーォ」の掛け声とともに薪で地面を払って進む。
本堂前に生松割木を井桁に組んで積み上げた高さ2メートル以上の柴燈木に登って火をつける。
裸の男たちが角灯を持って登る。山内節をうたい気勢をあげながら煙りや火の粉を浴びて身を清める。
腰を低くして「イヨーォ、イヨーォ」の掛け声で地面を炎で払ったり叩いたりして堂内を周る。
④別当(べっとう)登り
住職と氏子たちがほら貝を吹きながら蘇民袋持って薬師堂に入る。災厄消除と五穀豊穣の護摩を焚く。
⑤鬼子(おにご)登り
7歳の男の子が2人麻衣をつけ、逆さにした鬼の面を背負う。大人におぶさって「ユー、ユー」の掛け声で薬師堂に登る。
その後住職が外に出て曼荼羅米(まんだらまい)をまく。
外の護摩台に火が付いた松明を置き、炎の周りを鬼子が3周まわる。
松明には桶の水がかけられて火が消える。消えた松明に群がって燃えさしを奪い合う。
⑥蘇民袋争奪戦
煙が消えてきたら蘇民袋の登場。
将軍木(かつのき)で作った『蘇民将来』の護符の小間木をギッシリ入れた蘇民袋を奪い合う。
蘇民袋は蝦夷の棟梁のアテルイの首に見立てていると言われる。
間もなく親方が袋に刀を入れ中身がバラバラに飛び散る。落ちた小間木や袋を物凄い勢いで奪い合う。
小間木は持っていると厄災を免れるといわれる。
麻袋の切れ端もすべて拾いつくされるらしい。
勝敗は『袋の締め口』を持っていたものを審判が判定し取り主となり、そこでお祭り終了。
『蘇民祭』のルーツとは
摩訶不思議な蘇民祭がどこからやってきた祭りなのか、掘り下げて考察してみます!
祇園社【京都八坂神社】
蘇民祭の由来となっている備後国風土記逸文の注釈で「これは祇園社の本縁なり」と記されています。
祇園社とは現在の京都府にある「祇園さん」と呼ばれる『八坂神社』のことです。
祇園社の御祭神は牛頭天王を祀っておりましたが、現在のご祭神は同一神とされる素戔嗚尊(すさのをのみこと)で災厄消除のご利益をもっています。
また、八坂神社の境内に『疫神社』があり、ご祭神は蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)で蘇民将来伝説と同一のご由緒で疫病退散の神様として祀られています。
ここ八坂神社では日本三大祭りで知られる『祇園祭』で有名です。
1100年の歴史のあるお祭りで、平安時代に疫病が流行ったことを怨霊の祟りとして恐れ鎮める為に始まったとされています。
祇園祭では『蘇民将来子孫也』と書かれた札を身につけ、山鉾巡行の時に『蘇民将来子孫也』と書かれた紙札付きの粽(ちまき)が投げられる。
それを持ち帰り玄関などに疫病・災難除けのお守りとして吊るすそうです。
祇園祭の最終日の7月31日は『疫神社』の『夏越祭』が行われ、茅の輪のお守りが授与されます。
疫病退散の神事が始まったきっかけは、桓武天皇が怨霊を恐れたことが始まりとされています。
延暦3年(784)桓武天皇によって平城京から長岡京へ遷都されましたが、長岡京の遷都中に桓武天皇の実弟で皇太子であった早良親王が無実の罪を着せられ亡くなる。
それを皮切りに近親者に次々と不幸が起こります。時を同じく飢饉や天然痘も流行り、陰陽寮に占ってもらうと早良親王の怨霊による祟りという結果が出ました。
日本最古の『蘇民将来之子孫者』の木簡が出土した場所が長岡京右京内の小路側溝で、次に古いのは平安京内の壬生寺境内遺跡から出土しているものです。
出土した場所や時期は違うが『蘇民』の文字と五芒星が書かれている札が多いようです。
現在も蘇民祭で使用される小間木や札に五芒星や九字を書く風習が残っています。
五芒星・九字格子『セーマン・ドーマン』といえば正に平安京で怨霊退治で活躍したとされる陰陽師が使用する呪術です。
五芒星は結界を意味し、九字格子は魔除けを意味します。
長岡京から平安京へ遷都後も桓武天皇は日々怨霊を恐れ、事が良くなるように厄除けの呪術を行っていたのでしょうか。
この時期に桓武天皇の勅願で造られた御霊神社(怨霊を鎮めるための)は数か所あるようです。
平安京へ遷都(794)後も疫病災害は収まらず、定観11年(869)6月7日に66本(当時の国数)の鉾を立て、14日祇園社から神輿を神泉苑に送り祀ったことが『祇園御霊会』の始まりとなりました。
平安時代は天変地異はすべて怨霊の祟りと考えられていたので、その後の時代とともに政治不安の民衆の意識をそらす為に、疫病(悪霊)退散の祭りを民衆交えて行う行事となっていきました。
御霊会と修正会
造営中の平城京(794)へ移り住んだ桓武天皇は日々怨霊に悩まされていたようです。
信頼する家臣の藤原緒嗣に「蝦夷討伐と平安京造営が天下がおかしくなっている原因ではないでしょうか」と言われたことがきっかで、4回目の蝦夷討伐と平安京の造営をストップしたこともあったそうです。
岩手の蘇民祭が行われている地域は、廃止となった所を含め30か所ほどありましたがほぼ県南の花巻市~一関市の地域に集中しています。
そこは朝廷軍の侵略に蝦夷が激しく抵抗し続けた地域でもあり、神社や寺社には鬼や坂上田村麻呂の伝説が数多く残っています。
蝦夷平定後は朝廷側の仏教を普及する為に、蝦夷の土着信仰があった場所に上書きをしていくように慈覚大師円仁や坂上田村麻呂によって創建された神社や寺社がほとんどで、不動明王や薬師如来が祀られています。
牛頭天王は薬師如来の本地とされているし、武塔神の正体はスサノオであり同一神は牛頭天王。
とにかく怨霊を恐れて厄除けの神様を奉ったように思えてなりません。
仏教寺院で正月に行われる『修正会』という行事があり、平安時代から行われています。
【修正会の歴史】
修正会の 起源は、中国で行われていた新年を迎える際の行事 です。
その行事が日本にも伝わり、新年に行う法会として確立しました。
日本でこの行事が行われ始めた頃、「修正会」ではなく「 悔過会(けかえ) 」と呼ばれていました。悔過会は、三宝に自らの罪を懺悔する法会です。
三宝とは「 仏・法・僧 」のことで、仏教における三つの宝を指します。仏は悟りを開いた人のこと、法は仏様の教えのこと、僧は悟りを開く為に修行している人のことです。
【修正会のながれ】
(お墓・霊園比較ナビ編集部記事より引用)
◼寺院によって様々ですが、 基本的には「法要」ですので、まず読経があり、その後法話を行うことが一般的 です。
◼年末の除夜の鐘で旧年の穢れを祓い、それから新年の悔過の法要を行う寺院もあります。
◼1月1日から1月7日頃まで行う法会ですので、その期間中 様々な法要や法話を行う 場合もあります。
◼東京浅草の浅草寺では、修正会で鬼遣らい(おにやらい)という儀式を行います。初めに厳かな読経や散華(さんげ)が蒔かれ、その後、鬼の面を被った僧と柳の杖を持った僧が現れます。そこから、鬼遣らいと呼ばれる儀式が始まるのです。厄災を表した鬼を祓う為に、柳の杖を持った僧が杖で床を叩き、鬼は堂内を駆け巡ります。
上記の通り、黒石寺で行われている蘇民祭と酷似しています。
また、達谷窟毘沙門堂の蘇民祭はハッキリと修正会の神事とされています。
朝廷に対する怨霊を鎮める為にはじまった『祇園御霊会』と、正月に行われる仏教行事の『修正会』が習合して現在の『蘇民祭』のカタチになっていったのではないかという見解です。
まとめ
蘇民祭とは、天災や疫病を人の怨霊と考え回避するためのお祭りだったのですね。
ジャッソー(邪正)!ジョヤサ(除夜祭)!
というかけ声も、セーマンドーマンの護符や六角棒、茅の輪など・・呪術的な儀式そのものだったのです★
その後は豊作や健康を願うために祭りは続けられ、受け継がれている『蘇民祭』や『祇園祭』といった神事は『感謝と健康と平和』を願う人々の心を一つに繋げます。
1000年以上も昔の神事は、現代人から見ると奇妙な祭りかもしれません。
少し前までは、ふんどしすら身に着けず産まれたままの姿で行っていたようですよ⭐
これまでに至る蘇民祭の歴史を知れば、「ポスターがセクハラ」なんて発想はもう出てこないはずです!!
【参考資料・HP】
・岩手の蘇民祭 岩手県教育委員会
・謎解き祭りの古代史を歩く オフサイドブック
・蘇民祭岩手自治体HP
・ふらふら京都散歩
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