数々の伝説が語り継がれる英雄『源義経(みなもとのよしつね)』ですが、彼は義兄の源頼朝から追われる身になり平泉で妻子と共に自害するという哀しい結末となっています。
しかし、岩手県や青森、北海道で語り継がれる伝説では生き延びて北へ向かったという『義経北行伝説』という希望あふれる伝承もあるのです。
江戸末期に来日したドイツ人医師のシーボルトという人物が義経の北行伝説のウワサを知ると、モンゴル帝国の建国時期と重なるのことから
義経はチンギスハーンである!
という説を唱えたとのこと。
義経とチンギスハーンの肖像画が少し似ているのが気になる
たしかに、義経の戦術や陸奥国(むつのくに)という地を掘り下げていくと、源義経とチンギスハーンがつながる背景が見えてきました。
東北文化のルーツは北方騎馬民族?
東北地方の歴史が表立って年表に現れるのは、征夷大将軍:坂上田村麻呂が蝦夷平定をしたとされる延暦21年(802年)の平安初期から始まります。
その後原住民は俘囚(ふしゅう)や夷俘(いふ)と呼ばれ、関東や西側の地域へ強制移住されることになります。
東北地方は鉱山資源・駿馬の豊富な地域でしたので、その後も中央政権に資源の略奪目的の為に幾度となく軍勢を向けられてきました。
東北と鉄
古代の製鉄といえば『出雲のたたら製鉄』が有名ですが、砂鉄が採れる陸奥国(むつのくに)でも独自の製鉄技術を持っていました。
現在でも釜石市では川で餅鉄(べいてつ)といわれる鉄鉱石が簡単に採取できるくらい鉄の産地です。
俘囚がかつて全国へ配流された地が現在では『別所』という地名となった説があるようです。
そこは鬼の伝承があったり、鉄やたたら跡地が見つかっているので俘囚は製鉄技術者・採掘労働者として強制移住させられたことが推測できます。
岩手県は蕨手刀(わらびてかたな)という鉄製の刀の出土数が全国で1番多く、蝦夷の古墳や遺跡に副葬品として埋葬されていたことから製鉄技術があったであろう蝦夷が使用していた刀剣という認識となりました。
蕨手刀の特徴として馬上から片手で握って振りかざすことに特化しているので、駿馬にまたがり短弓と併用して蕨手刀で戦っていたのでしょう。まさに北方騎馬民族の戦闘方法といえます。
ドイツ人医師のシーボルトの著書『日本』の記事の一文に、
日本は長い間、その名も知られず、そこにはタタールの地からの渡来者が住んでいた。
とあります。
タタールとは、製鉄技術を持った遊牧騎馬民族であって東北の蝦夷と呼ばれた人々はその混血だった可能性が十分に考えられます。
ちなみに『たたら』の語源は諸説ありますが、タタールや韃靼(だったん)という説が有力ではないでしょうか。
東北と馬
東北は馬産地なので、馬を家族と同じように暮らす南部曲がり家という住居があったり馬を神様として祀る『蒼前神社(そうぜんじんじゃ)』があります。
古代から馬は大変貴重なもので、特に駿馬(しゅんめ)といわれる東北の馬も大和朝廷の蝦夷征服の目的物の一つであったと思います。
優れた馬も製鉄技術と同じく、北方の遊牧騎馬民族(タタール)が大陸から北海道を経由して東北へと渡来し持ち込まれ東北の文化となったのでしょう。
『平家物語』によると、源頼朝の軍勢が木曽義仲に橋を壊されたので宇治川の急流を馬で渡るしかありません。
しかし急流の中を真っ先に一直線に渡りきった武将:佐々木四郎高綱がいました。
その馬はもちろん源頼朝に譲り受けた奥州産の名馬『生数奇(いけすき)』でしたので、奥州の馬は当時からとても優れていたことが分かります。
義経の戦術はゲリラ戦
源義経は天才軍略家であり、数々の奇策や戦闘技術で平家を滅亡に追い込んだ立て役者です。
奇襲といえば織田信長の桶狭間の戦いを思い浮かびますが、平安時代の戦い方とは軍勢でいっきに攻めかかり武者同士が一騎打ちをし、敵将を討ち取ることで勝敗が決まるといった戦い方でした。
それを義経はこれまでの常識を覆す方法で、有名な『一の谷の戦い』や『屋島の戦い』では敵の裏をかいて少数精鋭部隊で攻め込む奇襲攻撃を成功させます。
当時の武士のやり方としてはあり得なかったようで、義経の行動は卑怯者やだまし討ちなどと言われ頼朝や坂東武者には良い印象を持たれませんでしたが。
しかし騎馬や弓術に長け、義経にしか思いつかない少数精鋭による奇襲攻撃は、朝廷軍による蝦夷征伐を38年間守り戦い抜いてきた蝦夷最期の族長、阿弖流為(アテルイ)を彷彿させますよね。(ビジュアルイメージは『もののけ姫』のアシタカです💖)
何年にも渡って何万もの兵を送り続けてきた大和朝廷に対して、数百騎で防衛してきた蝦夷軍は、野山を馬で縦横無尽に駆け回り朝廷軍を翻弄し続けておりました。
義経は京の鞍馬山を脱出後、奥州にて6年間匿われていました。
その時に東北の蝦夷古来のゲリラ戦の訓練に明け暮れていたことでしょう。
義経は【屋島の合戦中】に弓を落としし、敵陣にも関わらず慌てて拾いに行ったという逸話があります。
「身体の小さい義経は短い弓を馬鹿にされるのが我慢できないから」という事になっていますが、実際は馬上で素早く射るのに適した幅の短い弓を敵に奪われたくなかったのです。
そして、騎射(きしゃ)という技術は遊牧騎馬民族が起源といわれています。
義経の空白の6年がわかる伝承です
奥州藤原氏の交易ルート
奥州藤原氏は『黄金の文化』といわれ、『中尊寺金色堂』をはじめ京の都にも匹敵する経済力を見せつけられるほど繁栄していたとされます。
蝦夷平定後、陸奥国は歴史上では律令国家に組み込まれたように思われますが実際は独立国のような立場だったようです。
東北が中央政権に組しないで独立を維持できた背景に経済力がありました。圧倒的な資源『金・馬・鉄』を所持していた為、京を通さずに日本列島だけでなく宋や渤海など様々な国との貿易ルートがあったといわれます。
そもそも、馬や鉄がユーラシア大陸の遊牧騎馬民族から東北へ持ち込まれたとするならば、逆に東北から大陸への貿易ルートもあるということです。
そこで繋がってくるのが、義経=チンギスハーン説です。
義経は生きていて北へ向かったとされる北行伝説はコチラで載せています。
義経が北を目指した理由に、津軽の十三湊(とさみなと)から船で大陸へ渡るつもりだったと言われています。
十三湊が国際貿易拠点として栄えたのは安東氏によって鎌倉末期からといわれていますが、近年の発掘調査では藤原氏の時代にすでに港町が存在していた遺構がたくさん見つかっています。
義経生存説を信じるならば、『義経は十三湊から北の大陸へ渡る』ということが実際に出来てしまいます。
まとめ
東北はユーラシア大陸由来の文化が根付いていた事と、義経の気性が遊牧騎馬民族と相性が良かったのでしょう。
源義経は、モンゴル帝国を築いた『チンギス・ハーン』です!!とは言い切れません。
しかし奥州藤原氏の培ってきた交易による人脈をツテに大陸で新たな人生をスタートさせていたかもしれませんよね。
東北の歴史とは中央政権に負けっぱなしの歴史です。
そして勝者による歴史書というものが存在していない為、分からない所が多いのです。
義経の伝説は豊富な資源と技術、肥沃な土地、奥州藤原氏の黄金文化があった地だからこそ伝承され続け、また伝説が創られていくのかもしれません。
同時代を生きて、同じ気性を持った2人だったのですね。
【参考資料】
・義経北紀行伝説 平泉篇 著者:山崎純醒/批評社
・鉄と俘囚の古代史 著者:柴田弘武/㈱彩流社
・みちのく燦々 著者:中津攸子/新人物往来社
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