前九年合戦とはどんな戦だったのか|東北の『安倍氏』は蝦夷ではない説

東北の安倍氏 前九年合戦とは

岩手県には【世界文化遺産】に登録された平泉の中尊寺、毛越寺など奥州藤原氏が築いた寺院や遺跡があります。

その黄金文化を築いた奥州藤原氏が支配する何十年か前に奥六郡おくろくぐん(岩手県中南部)を支配していた豪族『安倍一族』おりました。

奥州藤原氏の基礎を築いた人物『藤原清衡(ふじわらのきよひら)』母方の血筋が安倍一族となります。

ぷーとん

安倍一族とは?『前九年合戦』ってどんな戦いだったの?

愛らんど

東北の歴史を語るうえで『安倍氏』は最重要です!元総理大臣の故・安倍晋三氏も末裔と言われています★

この記事からわかること
  • 東北の安倍氏のルーツ
  • 前九年合戦の始まりから終わりまで
目次

東北の安倍氏とは


東北の安倍一族については、『陸奥話記』という戦記物語の文面から定説で語られています。

この文献は平安後期から11世紀頃にかけて作成されたとなっておりますが、公的に造られた風土記と同じような性格をもった文書だと思われます。

つまり史実をもとにつくられたとはいえ、中央政権にとって都合よくかつ物語の要素が強い文書と言えるでしょう。

『陸奥話記』の冒頭文に「六郡の司に安倍頼良という者あり。是れ同忠頼が子なり 父祖忠頼は東夷の酋長なり」とあります。

この文章だけで

安倍忠頼は蝦夷(えみし)の族長で、その息子・安倍頼良も蝦夷(えみし)である。

と読むことができます。

※六郡の司とは奥六郡の群司で、地域住民と結びつきが強く国司より下だけど行政の実務のほとんどを行う仕事

それから東北の安倍氏は俘囚長ふしゅうちょう(帰順した蝦夷の長)として語られてきましたが、その他の文献からの見た安倍氏はまた違った見方ができるようです。

※奥六郡とは岩手県北上川中流域の胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、岩手郡、(旧地名含む)の六つの地域といわれています。南の奥州市から盛岡県北あたり

安倍氏のルーツは蝦夷?

武士の中の武士

安倍氏の出自は諸説あって確実に明らかになっていません。

『陸奥話記』による俘囚長という見方が通説で、東北の安倍一族は蝦夷の血筋と思われています。

神武東征の敗者となった原住民・長髄彦(ナガスネヒコ)と安日彦(アビヒコ)兄弟が東北に逃れ、その末裔が後に安日彦の名からとった安倍を名乗るようになった説もあります。

しかし最近の研究だと、安倍氏の血筋は京の中央政権からきた安部氏族ではないかという説もあるのです。

平安時代後期の宮廷貴族が残した『範国記』という日記に、

長元9年(1036)安倍忠好陸奥権守(むつのごんのかみ)という官職に就く

と人事が記述されています。

また、大分の安倍宗任の末裔安部貞隆氏が語り継ぐ伝承によると、

奥州安倍氏の祖は正三位大納言・安倍安仁(あべのやすひと)の子、安倍清行(あべのきよつら)だという家系図が残っているようです。

陸奥守となった安倍清行の子の安倍頼任から奥州に定着して、5代目が安倍頼良(貞任・宗任の父)となって代々陸奥国を治め拡大していったとのこと。

安倍氏ルーツは公家の安倍氏族だったのか・・。

ほかにも、安倍比羅夫や安倍比高からのルーツという説もあり。

安倍安仁(正三位大納言)
  |
安倍清行
  |
安倍頼任
  |
安倍忠頼(忠好)
  |
安倍頼良(のちに頼時に改名)
  |
安倍貞任、安倍宗任

前九年合戦とは

前九年合戦

平安後期、多賀城(宮城県)に国府や鎮守府といった役所が置かれ、中央政権(京)から陸奥守が派遣され東北は律令国家に組み込まれておりました。

しかし陸奥国を実質支配していたのは『安倍氏』、出羽国(秋田県)を支配していたのは『清原氏』で2大政党として君臨していました。

鬼切部の戦い

安倍頼良の代から安倍氏の支配力が強くなっていき、中央政府への税を怠るようになり永承6年(1051)陸奥守:藤原登任が安倍氏へ兵を向けることとなりました。

これが鬼切部の戦い(宮城県大崎市)と呼び、前九年の合戦のはじまりです。

結果は安倍軍の勝利で、藤原登任は任期を残して京へ戻されました。

その後任に源頼義みなもとのよりよしが陸奥守として息子の源義家みなもとのよしいえと共に赴任してきます。

しかし安倍氏は恩赦を受け罪を許され、安倍頼良も名を頼時に改め(名前が同音なので源頼義に気を遣い)朝廷に歯向かう気は無い態度を示したのでした。

阿久利河事件

しばらく平穏な時が続きましたが、陸奥守・源頼義の任期を終えそうな天喜4年(1056)阿久利河事件が起きます。

源頼義が多賀城に戻るため阿久利河で野営していると、「頼義の部下の藤原光貞が夜討ちに遇って人馬が襲われた!」と報告がありました。

その犯人に見覚えはないかと源頼義が尋ねると、

「前に貞任が自分の妹を妾(めかけ)に欲しいと言ってきたが、安倍氏の出自が卑しいので(蝦夷なので)嫁にやれんと断ったことがある。それを恨んで人馬を殺したのだろう。」

と答え、それに怒った源頼義が安倍貞任を多賀城に呼びつけます。

貞任は全く身に覚えはなく、父・頼時はこれを拒否し、安倍源頼義の戦が始まります。

この阿久利河事件は源頼義による謀略といわれています。

安倍貞任はこの時すでに正室がいて、千代童子(ちよどうじ)という長男も生まれていました。

前の陸奥守・藤原登任と同様に、任期中になんとしても安倍氏から奥州の利権を奪いたかった為に仕掛けられた私戦でした。

この時、頼義は部下の平永衡を安倍頼時の娘婿で血縁関係があった為スパイと疑がって殺してしまいます。

頼義の部下藤原経清(ふじわらのつねきよ)も、安倍頼時の娘婿で平永衡と同じ立場にありました。

経清は身を案じてか、大儀の無い頼義を見限ってか安倍氏へ寝返ります。

この藤原経清と、安倍頼時の娘・中加一前との子が奥州藤原氏の開祖:藤原清衡となるのです。

安倍頼時の死

天喜5年(1057)源頼義は戦況を打開するために、岩手の北方の勢力をもつ安倍頼時の叔父の安倍富忠を味方につけることに成功します。

富忠は、気仙郡司の金為時(こんためとき)と共に安倍氏を裏切る行動に出るのです。

富忠の裏切りに対して、頼時は説得するためにわずかな手勢で赴きます。

しかし頼時は富忠の待ち伏せに油断し、流れ矢に当たり鳥海の柵(岩手県金ヶ崎町)で亡くなってしまいます。

安倍氏の家督を引き継いだのは嫡男の貞任でした。

黄海の戦い


「安倍頼時」の戦死を受けた源頼義は攻め時と思いすぐに多賀城を出発。

源氏軍1,800に対して安倍貞任率いる安倍軍は4,000で迎え、源氏軍VS安倍軍の初の激突は黄海(岩手県一関市藤沢町黄海)で起こりました。

雪の降る冬で兵糧も確保できず、地の利がある安倍軍の圧勝でした。

完全に打ち負かされた源頼義の兵は残り6騎となり頼義の騎馬も死に、200騎ほどの貞任軍に囲まれて頼義親子は大ピンチとなりました。

この状況でも安倍軍は頼義親子を見逃してあげたそうです。

あくまで朝廷側に歯向かう気は無く、和議で戦の回避を探っていたとされます。

源氏軍の大敗は大義の無い侵略戦争であったので、陸奥国の民や出羽の国司(源朝臣兼長)らの一切の協力が無かった事と安倍氏側の軍事力を見誤っていたことが要因でした。

黄海の戦から安倍氏の支配力はますます高まり、勢力圏を衣川から南へ伸ばしていきました。

出羽国の清原氏が源頼義側につく

陸奥国は安倍氏の勢力下で平和が訪れていました。

安倍氏の配下となった藤原経清が朝廷に納める徴税符の『赤札』を無視し、『白符』を発行して税を徴収したといわれるほど安倍氏の力は強くなっておりました。

その間に源頼義は関東、東海、近畿の武士を寄せ集め武力の増強を行っていました。

天喜5年(1057)から康平5年(1062)までの5年間は頼義の軍事力では安倍氏を打つことはとても出来なかったからです。

陸奥国には新たに高梨朝臣経重(たかしなのあそんつねしげ)が赴任され京を出発しましたが、頼義は再び任期が切れても帰京しないで留まり続けました

高梨経重は陸奥国の国境まで来ましたが何もせずに京へ引き返したようです。

おそらく頼義は高梨経重へ『白符』を見せて安倍氏の朝廷に対する罪の証拠品としたのでしょう。

新しい国府を追い返したのはこれで2回目です。この間に頼義は何度も出羽国の清原光頼、武則兄弟へ『賄賂』を何度も贈り出兵を依頼していたようです。

そしてついに出羽国の弟:清原武則が頼義側に加担することになり、これまで優勢だった安倍氏ですが戦の流れが大きく変わっていきました。

厨川の柵落ちる

康平5年(1062)、清原氏の参戦により一万の軍を率いて陸奥国へ布陣しました。

源頼義はとても喜び3,000ほどの自軍を率いて出発しました。

形勢は源氏・清原連合軍の優勢となり、初戦の小松の柵(岩手県一関市)が陥落。

その後石坂柵、衣川の柵、瀬原柵、鳥海柵と後退していきました。

衣川柵では清原側の間者によって火を放たれ、それを見た貞任は守りを解き厨川の柵(岩手県盛岡市)まで全軍を引かせました。

この時の追討劇で安倍貞任と源義家の連歌の逸話が生まれました。

厨川の柵では籠城戦となり安倍軍は奮闘していましたが、清原軍に火をかけられ焼け落ちてしまいます。

伝承では厨川の合戦の前に蔵を開放し、家臣や領民に米などを分け与えてここより遠い場所へ逃げるよう命じたそうです。

戦前の蔵の開放などはあり得ないことで、家臣や民を逃がし貞任は自身の死を覚悟していたのでは無いかといわれています。

源氏軍はほとんどが清原氏の軍団で、安倍氏と同族とも言われる清原氏による軍略で安倍氏は滅ぼされたようなものです

愛らんど

夷を以て夷を制す…ってやつですね。坂上田村麻呂による蝦夷討伐と同じです!

厨川の柵での敗戦後

安倍貞任は深手を負い討ち死にし安倍一族は滅亡しました。

34歳という若さでした。

180センチ以上ある長身の、ふくよかで色白な容姿だったといわれています。

安倍貞任の弟の重任藤原経清は斬首。

頼義はよほど恨んでいたのか経清の首を酷く苦しむ鈍刀で切らせました。

藤原経清の妻:中加一前と子:清衡(7歳)は助けられ、清原武則の長男:武貞と再婚して清衡は養子となりました。(後に後三年合戦が起こる)

安倍貞任の子、千代童子は13歳の若さでけなげな若武者ぶりに源頼義は同情し命を助けようとしたが、清原武則がそれを止め斬首されました。

『容貌美麗。驍勇有祖風』と記され美男子で祖に劣らず立派な風貌だったようです。

厨川の柵が落ちた時の記述に『城の中の美女数十人、皆綾羅を衣、悆く金翠を粧ふ』とあり、

城の美女たちは平安貴族の装いそのものであることから、奥州安倍氏の築いた文化は蝦夷は野蛮で未開人というイメージは全く無かったようです。

安倍貞任の異母弟の安倍宗任は投降し、後に源頼義の赴任先の伊予(愛媛県)に身柄を移されることになります。

前九年の戦は終結しましたが、奥六郡を世襲している安倍氏が自治権を持ち、税も安倍氏が徴収し国に納めていたとの見方があることから、この戦は源頼義による私戦だったといえます。

その証拠に、源頼義は朝廷から恩賞を受けられず不本意な伊予国への赴任が命ぜられました。

清原武則は鎮守府将軍に任命され、安倍氏の勢力下にあった陸奥国をそのまま得る事になり、この戦で1番得をした人物と言えます。

まとめ

奥州の支配者であった『安倍氏』は、俘囚長や朝廷に逆らう賊軍などの見方をされておりました。(中央側から見ると)

しかし

ルーツをたどると、中央貴族からなる可能性もあるとは…まったくの逆説で面白いですね。

この記事でわかったこと

  • 東北の安倍氏のルーツ・・・正三位大納言の安倍安仁の子の安倍清行
  • 前九年合戦・・・源頼義による略奪戦争

奥州を支配していた安倍氏は、1,000年経った今でも全国に安倍貞任・宗任伝説があるくらいですから民衆にとても慕われた一族だったのでしょう。

罪をでっち上げて戦争をしかけた源頼義・義家親子、安倍一族の覇権を欲して寝返った出羽の清原氏

そして安倍一族の生き残りとなる藤原清衡たちの運命は後の『後三年合戦』へとつながっていくのでありました・・。

愛らんど

公家出身であろうとも、東北のその土地の有力者と婚姻をして力をつけていけば朝廷側にとっては目障りな存在となってしまうのかも。清和源氏しかり

【参考資料・出典画像・HP】
・逆説 前九年合戦史 著者:安部貞隆
((有)ツーワンライフ)

・前九年合戦シンポジウム 前九年合戦終焉950年記念平和
記念祭実行委員会((有)ツーワンライフ)

 樋口 知志氏
・安倍一族21世紀への岩手のビジョン”ニュー安倍みち”
(盛岡タイムス社)

・貞任絵巻(吉川保正氏)
・前九年合戦絵巻(国立歴史民俗博物館)

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ぷーとん

安倍氏・奥州藤原氏は源氏とくされ縁だよね・・・

愛らんど

ほんと、前九年・後三年合戦があったから藤原清衡が【平泉文化を繫栄】させたけど。けっきょく最後、源頼朝に滅ぼされるし。源義経が平泉と無縁で、平家を滅ぼさなかったら…て考えちゃうよね。

源義経って実際どんな人物だったのか

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