歴史界の悲劇の武将と称される源義経(みなもとのよしつね)は、全国各地に義経にまつわる伝説が数多く語り継がれています。
義経は、判官贔屓という言葉ができるほど人々に同情され愛された人物といえます❣
人気があるがゆえに実は生きていて、北の方へ逃げ延びたといった『義経北行伝説』まであるようです。
義経生存説が語られるうえで、やはり奥州藤原氏の存在が無くてはならないでしょう。
義経が生涯を終えたとされる地、岩手県で語りつがれる義経伝説はどのような内容なのでしょうか。
源義経は何をした人?
『稀代の戦術家』として平家討伐に大きな功績を残した義経ですが、兄の源頼朝に嫌われ・・朝敵にされてしまい哀しい運命をたどります。
そんな義経の経歴をざっくりと紹介します‼
- 平治元年(1159年)義経1歳(数え歳)🔸義経(幼名:牛若)源義朝の九男として産まれる。🔸『平治の乱』が起き、父:源義朝は敗死、兄:源頼朝は伊豆へ配流。
- 義経7~11歳鞍馬寺に預けられる。なぜか平家打倒を心に誓い修行の日々を送る。🔸その時に武蔵坊弁慶と出会う。
- 義経15歳🔸鞍馬寺を脱出し、東北を目指す。🔸自ら元服し、父:源義朝の義と清和源氏の祖:源経基の経をとり『源義経』と名乗る。🔸奥州藤原氏:藤原秀衡にかくまってもらい平泉で育つ。
- 治承4年(1180年)義経22歳🔸兄の頼朝が伊豆で挙兵。それを聞いた義経も参戦したく藤原秀衡に兵を借り挙兵。🔸『富士川の戦い』に勝利した頼朝と黄瀬川で再会した。🔸頼朝は鎌倉に留まり東国平定に力を入れ、義経は遠征を任される。
- 寿永3年(1184年)義経26歳🔸『一ノ谷の戦い』で断崖絶壁を馬で下った奇襲が当たり平家軍に勝利。🔸後白河法皇に気に入られ検非違使に任命される。🔸勝手に官職を受けたことに頼朝は激怒。義経は平家追討部隊から外される。
- 文治元年(1185年)義経27歳🔸義経は再び出陣を命じられる。🔸その後は奇襲攻撃や海上戦の『壇ノ浦の戦い』で平家を滅亡にまで追い込む。🔸監視役の梶原景時が、義経の勝手な行動を非難する内容を頼朝へ報告する。🔸義経は鎌倉に入国させてもらえず京へ戻る。🔸頼朝と義経は仲違いが本格的になり義経追討の院宣が出される。
- 文治2年(1186年)義経28歳🔸京にはいられなくなり藤原秀衡を頼って奥州へ逃げる。
- 文治5年(1189年)義経31歳🔸藤原秀衡は亡くなり、後継の藤原泰衡に対して頼朝は義経追討命令を出す。圧力に屈した泰衡は義経に兵を向ける。🔸追い詰められ平泉の衣川の館で妻子ともに自害する。
義経とはどんな人物?
数多くの舞台やドラマの題材となっていることから、義経のイメージは固まっているでしょう。
通説では以下のとおりです。
- 鞍馬山の天狗と修行した身体能力
- 女装が似合う色白美少年
- 斬新なアイデアで戦局を切り開く軍略家
- 聡明な白拍子、静御前に慕われる色男
- 手柄を立てるがなぜか褒められない
人々からから同情を誘う生涯だったので脚色が過ぎるように感じますが、身体能力に優れ、知性があり戦上手。
そして容姿も優れているので、女性にモテるであろう人物になっています。
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義経の生存説の根拠
平泉の衣川館で亡くなった義経ですが、生存説を信じるとすれば義経を生かす為に尽力してくれる人物は
『奥州藤原氏』しか考えられません。
藤原秀衡の存在
藤原秀衡は義経が16歳の頃から庇護していて、再び平泉に逃れてきた時はそれは喜んだようです。
衣川館を居城として与えるとともに、5郡の領地も与え息子のように大事にしていたことがわかります。
また当時の秀衡は『奥州藤原氏三代目』として、京をもしのぐと言われる平泉の黄金文化全盛期でありました。
中央(京)から離れている場所柄もありますが、源頼朝でさえ簡単に手出しできない独立政権です。
秀衡は義経追討令を受けていても上手くかわしていて、朝廷や鎌倉からの使者に対しても義経をかくまっていることを否定し続けました。
さらに使者にはもてなしたうえ手土産を持たせて帰しました。
このやり方は奥州藤原氏の祖ともいえる安倍頼時の、朝廷側の使者とのやり取りを彷彿させます。
跡継ぎの藤原泰衡
源義経を守っていた秀衡は、まもなく病気で亡くなってしまいます。
後を継いだ藤原泰衡は、生前に父・秀衡から遺言を受けていました。
自分が死ねば必ず頼朝は義経を討つように命じてくる。
鎌倉から使者がきたら義経との和睦を勧めること。
きかねば使者の首を斬れ
頼朝がこちらに軍を向けることになったら義経を総大将として担ぎ上げ、陸奥国・出羽国の大軍で対処せよ。
一族が力を合わせ決して背くことのないように。
そしてこの遺言のほかに、泰衡と義経それぞれに一通ずつ遺書を渡したとも伝えられています。
藤原秀衡の死を聞いた源頼朝は、すぐに朝廷に働きかけ『義経追討の宣旨』を泰衡に送りつけました。
※宣旨とは・・
泰衡は父と同じように、使者をもてなししらを切ってきました。
しかし何度も届く命令や頼朝から泰衡に対する非難も激しくなり、屈してしまったようですが・・・
その後に泰衡は義経の館に火をつけ、逃げ場を失くした義経は妻子ともに自害に至ります。
側近10数名である義経の館を、500騎の軍で攻めたといわれる泰衡の行動に疑問を感じます。
義経の死への疑問
生存説を語るうえで『義経の首』が偽物だった可能性があり、そこから生存説が広がったようです。
義経の首を運んだのは泰衡の家来の新田高平という者で、酒に浸けて運び鎌倉に届くまで1ヶ月半かかったようです。
4月末から6月半ばにかけて移動し、もちろん首は焼け首のうえ腐敗し誰かもわからない状態でした。(新暦では6月下旬~8月頃にあたる)
しかし、首実検の末『義経公の首級』と承認されました。
検分者は源頼朝の重臣・和田義盛と梶原景時です。
その首は浜に捨てられたとも川に投げ入れられたともいわれ、首級の扱いとは思えない扱いにかなり謎が残ります。
そもそも、頼朝をはじめ皆偽首と分かっているが義経を死と処理した理由は何でしょうか?
義経は逃亡したのかもしれないが、今後は身を隠し表立って現れることは無いとは考えにくいです。
恐らく、頼朝はじめから義経追討を利用し『奥州藤原氏を攻める』つもりでいたのです。
その証拠に義経の死を理由に、命令に背いた(義経を差し出せと言ったが殺せとは言ってない)泰衡討伐を朝廷に申請したという頼朝の行動からわかります。
『義経北行伝説ルート』をたどる
源義経が落ち延びて北へ向かったルートは、『平泉』から『青森』、蝦夷地と呼ばれていた『北海道』。
さらに海を渡りモンゴルを統一したチンギス・ハーンに成ったという盛りすぎな逸話もあります。
しかし、義経にまつわる蝦夷地のアイヌ伝やチンギスハン説は江戸時代以降に作られた話ともいわれています。
今回は、岩手の民が語り継ぎ信仰してきた義経北行伝説のルートを紹介していきます。
平泉町~遠野市
高館義経堂【平泉町】
吾妻鏡では衣川の館で亡くなったことになってますが、義経がこの地で妻子とともに自害した場所といわれています。
生きていたとすれば、この地が北行のスタート地点と思われます。
観福寺【一関市大東町】
義経の家来・亀井六郎重清のものと伝えられる笈(おい)が保存されています。
観福寺は奥州合戦後に頼朝の配下だった工藤祐経の息子犬坊丸が建立したそうです。
工藤祐経は一時期義経の配下だったことも、鎌倉に送られた静御前のめんどうを見たとも言われている人物です。
義経と関りのある人物といえます。
玉崎神社【奥州市江刺玉里】
義経一行は玉崎神社で5日間参籠し、旅の祈願をしたそうです。
この時に奉納したといわれる『経文・槍・太刀』が宝物として残っております。
源休館跡【奥州市江刺区】
巨石がたくさんある稲荷神社が源休館跡といわれる。
義経たちが滞在し休んでいたのでこの名がついたそう。
館があった痕跡はないが、古くからの磐座信仰の地として義経は旅の祈願をしていたのかもしれません。
風呂家・駒形神社【遠野市】
赤羽根峠を越えて遠野についた一行は民家で風呂に入れてもらいました。
それからこの家は姓を『風呂ふろ』と名乗るようになったそうです。
義経の愛馬:小黒は峠越えで力尽きて亡くなり、小黒を埋葬して祠を建てたと伝わる『駒形神社』が近くにあります。
釜石市~宮古市
中村判官堂【釜石市】
八幡氏宅の裏にあります。
義経一行が八幡家に泊まり、宿のお礼に鉄扇や書き物を残していったそうです。
その後八幡家は祠を建てて義経像を祀り、この地の人々は八幡家を『判官さん』と呼んでいたそうです。
法冠神社【釜石市】
義経一行はこの地に泊まったと伝えられる。
この地の先祖が祠をつくり祀ったそうで、『法冠(ほうがん)』と呼ぶが『判官』と同じ意味だそうです。
佐藤家文書【山田町】
義経の家臣、佐藤継信・忠信兄弟の末弟:佐藤信政の直系の子孫といわれる方がおります。
この佐藤家に伝わる文書が残っていて、「屋島合戦で戦死した佐藤継信の持仏を持ってきて佐藤信政に渡した」と記載されています。
日付が文治4年9月とあり、義経は衣川の館が襲撃される前の年にすでにこの地に来て戦死した家臣の形見を弟に渡したことになるようです。
その他に義経一行をもてなした時に使用したと伝えられる釜や酒樽などがあったそうです。
鈴ヶ神社【宮古市川井】
「しずか」が訛って「すずか」となり、または「静御前さま」と地元の人は呼んでいたそうです。
静御前が義経と息子を追ってこの地に来たと伝承があります。
頼朝の追ってから逃れる為、死んだことにして墓を建ててもらったと伝えられます。
※静御前が産んだ男児は由比ガ浜で流されたはずですが、実は北条政子のはからいで生かされていて、佐々木四郎高綱の養子として育てられていたという逸話もあります。
旧:川井村に伝わる郷土芸能『箱石こうきりこ』は静御前が伝えた踊りと言われています。
日向日月神社【宮古市茂一】
旧家:茂一家の祖先を祀っている神社で、祖先の佐々木四郎太郎義高は義経の遺児と伝わっております。
保元の乱で敗れた源氏の残党が落ち延びて建立した神社で、義経一行も立ち寄ったといわれます。
横山八幡宮【宮古市宮町】
文治4年。義経一行が訪れ修行し般若心経百巻を奉納したとされます。
家臣の鈴木三郎重家は高齢で妻子もいたためこの地に残るようにいわれ、神主となったそうです。
判官稲荷神社【宮古市沢田】
判官稲荷縁起によると、秀衡が義経に渡した遺書には『蝦夷地の道へ』と書かれていたそう。
意を決して館(衣川か高館)を脱出し宮古へたどり着き黒森山に館を建てたとあります。
この時に義経たちの名前を変えたとも記されています。
宮古の民が義経の甲冑をここに埋めて祀ったのが始まりとのこと。
黒森神社【宮古市山口】
古くから修験の霊場であったこの場所で義経一行は『三年三ヶ月』こもって修行したとされ、般若経典六百巻を写経・奉納したと伝えられています。
江戸時代まで黒森大権現や黒森観音と呼ばれていました。
田野畑村~久慈市
畠山神社【田野畑村】
この地に頼朝から義経追従の使者として訪れた畠山次郎重忠の伝承が残っています。
重忠の愛馬が亡くなったので埋葬して祠を建て鐙を供えたそうで、社には鎌倉時代の鎧が伝わっております。
鵜鳥神社【普代村】
義経一行が蝦夷地の向かうため七日七夜こもり海上安全と武運を祈願しました。
すると神様が現れ「願いを聞き入れる」とお告げがあったそうです。
義経はその報恩とし卯子酉山に鵜鳥大明神を寄進したと伝えられます。
諏訪神社【久慈市】
諏訪の森で義経一行を追従していた畠山次郎重忠と対峙します。
義経に同情していた重忠はわざと矢を外して放ちったといわれ、そのまま義経は逃げ延びて行ったそうです。
重忠は義経を見届けた後、矢が刺さった場所を御神体とし諏訪大明神を祀ったとされます。
まとめ:義経北行物語はつづく
伝説の地をたどることで本来語られるべき義経の物語があり、その時に関わった人々の心情が伝わってきます。
- 衣川の館が攻められる前年の文治4年には平泉を脱出していた
- 義経の遺児は生きていて佐々木高綱によって育てられていた
- 義経の妾の静御前は義経の遺児に会いに岩手へ訪れていた
- 秀衡の遺書には『蝦夷地へ逃げるように』と書かれていた
- 頼朝は義経の死後に義経追討を畠山重忠に命じていた
正史とはまったく異なる真実の歴史が見えてきました。
やはり『軍略家の義経』が撃たれるのをただ館で待っていたとは考えられません。
その鍵となるのは義経にとって最大の庇護者『藤原秀衡』でした。
藤原秀衡は鎌倉幕府はもとより、いずれ中央政府に平泉を狙われることは承知でした。
しかし、祖の藤原清衡が求めた『平和で臣民一体となった平泉』を繁栄させていく事に注力していきました。
100年戦をしていない奥州の武士が、鎌倉武士に勝てるはずもない事を案じていたことでしょう。
義経が受け取った秀衡の遺書からもわかる通り、秀衡が一族を集めて伝えたことは表向きは『義経を擁立して鎌倉幕府を攻める』ように見せかける。
裏の作戦は『義経を北の地へ逃がす計画』であったのかもしれません。
久慈市で義経一行の足取りは途絶えてしまいますが、青森県八戸市で再び現れます。
『義経の北行伝説の地』は東北にまだたくさんありますが、今回は岩手県内における伝承地のご紹介と致しました🌟
う~ん、まさに判官びいきな義経伝説!ここまで人々に愛された武将はいたでしょうか?💖
【参考資料・HP】
・義経 北行伝説の旅 著者:伊藤孝博/無明舎出版
・義経北紀行伝説 第一巻 平泉篇 著者:山崎 純醒/批評社
・遠野・義経北コース 著者:前野 和久/㈱牧野出版
・義経北行伝説ドライブガイド義経は北へ 岩手県県北広域振興局/岩手県沿岸広域振興局
義経一行は再び青森八戸に現れる!
コメント
コメント一覧 (9件)
はじめまして。義経夢の会の山崎純醒です。愛らんどさんのブログ拝見しました。義経が辿った北行ルートを詳しく紹介し、かつ、平泉で死んでいなかったことをしっかり考証していることに驚き感銘しています。機会があったら、義経夢北行伝説について、愛らんどさんととことん語り合いたいものです。
初めまして!純醒先生から直接コメントをいただけるなんて、、とっても感激です🤗拙いブログ記事で、お恥ずかしい限りです^^;
純醒先生の「義経北紀行伝説」で、真実は自らの足で歩けば辿りつけるということを学びました。
赤沢にある義経神社の発見から歴史の通説を覆す、現地の伝承や物的証拠品がすごい威力を発揮するという感動を教えてもらいました。私自身は、純醒先生をはじめとする研究者が残してくれた著書をもとに足跡を辿ることしかできません。それでもこの素晴らしい研究結果を風化させないよう、次世代に繋ぐのが自分の使命だと思っております笑(勝手に)
いつかお会いできる日を楽しみにしております✨
😄🎶ご返事ありがとう。そう、いつかきっと会えます。😤願えば実現します。☝️例えば、私の義経講演の会場にお越し頂いても構いません。5月15日は東京永田町の「ホテル全国町村会館」で。6月3日は山形県山形市の「ホテルヒルズサンピア山形」で。9月23日は札幌市「ホテルポールスター札幌」で予定されている他、7月、8月も東京都内(日時、場所は未定)で義経講演が計画されています。🤔多分6月に盛岡でも小規模講演会があるかもしれません。その時はお知らせします。
すごい!お忙しく全国的に講演会されていらっしゃるのですね✨やはり全国にファンが多くいますからね♪お知らせが届くのを楽しみにお待ちしております😆
🙂お送りした資料一式、全部ご覧になりましたか。どんな印象を持ったでしょうか。お尋ねしたく思います。
🤔ところで、愛らんどさんは瀬織津姫神にも関心があるようですね。私は『隠された女神 瀬織津姫の謎』という演題で講演したことが何度かあります。お送りした資料の一つに「フォーラム記念冊子」がありますが、その94ページのNo.28をご覧ください。私の講演内容のダイジェスト版のようなものですが、興味がありましたらご注文ください。代金着金次第すぐ送ります。
フォーラム冊子をゆっくり読ませていただいております。とんでもなく予想を超える内容で、ワクワクしています。チンギスハンの件も正直、半信半疑の疑が多めだったのですが・・ここまで証拠を並べられたら有り得る✨と心動かされました。
純醒先生が瀬織津姫も研究していたなんて驚きました☺️瀬織津姫は本当に気になる神様です💕
片方さんに、義経と瀬織津姫は縁があるかも・・とヒントを頂きました。
思い当たるのは鈴鹿権現ですが、出雲と東北の関係も気になっていまして。出雲阿国や山伏、白拍子ももしかして?岩手の瀬織津姫神社に繋がるのかな??こじつけ妄想が広がります。
ということで、そのうち注文するかもしれませんのでその際はよろしくお願い致します。✨
注文をお待ちしています。義経はホツマツタヱを知っていたフシがあります。根拠をいくつかあげることができますが、ここには書き切れないので述べません。が、義経は北行旅で、瀬織津姫を祀る神社が近くにあれば、遠回りしてでも必ず立ち寄り参拝しています。遠野来内の伊豆権現神社はその代表例です。尚、出雲、阿国、山伏、白拍子などはフレーズをあげていましたが、それらと瀬織津姫神は無関係です。旧川井村の鈴鹿神社は、静御前を祀る神社ですが、義経はそこに1週間ほど滞在したと私は考えています。
純醒先生監修で『隠された女神 瀬織津姫』をAmazonキンドルで昨年1月に出させて頂きました。
今もまだ読まれていて、先ほど見たら先月は2140ページ読まれていました。
義経と瀬織津姫がつながれば素敵ですねー。
「黄金の国ジパングはかつての東北でした。世に消された『みちのくの歴史』の復活を夢みております★」
とのこと。
付け加えましょう。
「縄文時代の首都もかつての東北でした」
ミカヅキ様、コメントありがとうございます!
Kindleの『隠された女神セヲリツヒメ』面白そうですね💌レビュー評価も高いようで😄
ホツマにおいても最近、スズカミチというのを知りました。ますます瀬織津姫を知りたくなります💕(どんだけ自分好きよって感じですが。。)
縄文時代の首都もかつての東北✨それ良いですね!早速採用させていただきます☺️