平家を滅亡に導いた天才軍略家『源義経(みなもとのよしつね)』ですが、これまでの演劇に見られるイメージは容姿麗しい悲劇の武将といった人物像です。
しかし近年で言われるようになった義経の評価は、「出っ歯でブサイク」・「卑怯者」・「規律を乱す空気読めない人」といったかなりネガティブで散々な言われようです。(発達障害だったとかなんとか)
けっきょく、義経ってどんな人だったの??
実際は、「何をやっても目立ってしまう」、「人を惹きつける魅力を持った人物」だったのです。
天才肌の彼は、現代風に言えば会社組織に納まるタイプの人間ではありません。
その時代が彼に追いついて行けなかった故の酷評でしょう★
イケメンなのかブサイクなのかも気になる!
義経はどんな人?
義経の幼少期・義経をとりまく人達から『義経の人物像』を推測します。
幼少の頃は美男子
『平治の乱』平治元年(1159)で義経の父・源義朝は討ち死にしました。
義経の母・常盤御前は子どもを連れて逃げるが捕まってしまいます。
彼女は自らの命と引換えに子供の命だけは・・と助命を願います。
そして生き残った源義朝(義経の父)の息子たちは出家を条件に平清盛に見逃してもらいます。
常盤御前は千人の中から選ばれた美女と言われる人物で、その後清盛の妾となりました。
母が絶世の美女と呼ばれているので、義経ブサイク説の確立は下がりますよね。
また、義経を「肌の色白く細い眉毛、楊貴妃にも劣らない美女」と『義経記』に記されていることから、幼少期は女の子のような美男子だったのでしょう。(タッキーのような容姿であってほしい!願望)
鞍馬寺を脱出する
平清盛に命を助けられた後、牛若丸(義経幼名)と同じ母(常盤御前)の兄弟二人は醍醐寺・園城寺にそれぞれ入り僧侶となりました。
牛若丸は9男で末っ子の赤ちゃんでしたが、後に7歳になり鞍馬寺に預けられます。
鞍馬寺でやがて遮那王(しゃなおう)と名乗り、昼は学業に励み、夜は天狗から剣術を学んだ(創作)などと言われています。
しかし、このまま大人しく出家する遮那王ではありません。
15歳になると鞍馬寺から脱出し奥州藤原氏の元を頼ります。
この脱出劇に関わった人物は、常盤御前の再婚相手の一条(藤原)長成つながりで金売吉次という商人(実際は藤原秀衡の家臣)とされています。
いろいろな人の縁で鞍馬寺の脱出が成功しましたが、長く育った地を捨て京から奥州までの長い旅が始まります。
そして旅の途中、名前を『義経』に改名し自分で元服したというツワモノです。
「いつかは平家打倒!」と心に誓い、脱出劇を実行できるなんて、精神的なたくましさと信念を持っていないと出来ません。
平泉での6年間、義経は何をしていたのか?!記事はこちらです!
個性派ぞろいの家臣団
義経の兄・源頼朝率いる源氏に加勢していく東国武士たちは、頼朝を慕っていたわけではなく平家に不満を持つ地方豪族たちの集まりでした。
しかし頼朝は担がれているのを理解したうえで、東国武士たちに領地や免税など、働きに応じて恩賞を与え信頼を獲得していきました。
対して義経は、、
寺での修行 ⇒ 放浪の旅 ⇒ 平泉で匿われた身での生活
自分の家臣を育てていくような環境にありませんでした。
それでも、長い浪人生活や源平合戦への参戦から義経の人徳に惚れ込んで付き従う家臣が増えていきました。
武蔵坊弁慶
弁慶の立ち往生など、最期まで義経を守り続けた側近中の側近です。
元比叡山の僧で、大柄で剛力無双といわれています。
この時代のお坊さんは僧兵でもあり、寺社を守る為に武装していたのです。
智勇を兼ね備え、実はとても美形だったそうです。
伊勢三郎義盛
出身は伊賀国(伊勢)の国司の子、もしくは多くの手下を抱えた鈴鹿山賊だったともいわれています。
義経の副将として転戦し、有名な奇襲攻撃は伊賀忍術の心得を持った義盛によるものという見方もあります。
鈴木三郎重家・亀井六郎重清 兄弟
紀州熊野の名門:藤白鈴木氏の当主。
一ノ谷・屋島の戦いなどで武功をたて、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて勝利へ貢献する。
弟の重清は弓の名手で、兄と共に義経の最期まで従った重臣です。
佐藤継信・忠信 兄弟
藤原秀衡の家臣・佐藤基治の子。
秀衡に命じられ、佐藤兄弟は同行することになり二人は義経に従い戦功をあげました。
兄の継信は、屋島の戦いで矢から義経をかばい討ち死にする。
弟の忠信も、頼朝から追われる身となった義経を逃がすために吉野山でおとりになって落ち延びさせるという、なんとも忠実な兄弟でした。
常陸坊海尊
弁慶と同じ元比叡山(園城寺とも)の僧兵。
高い鼻・青い眼で天狗の風貌といわれ、義経の幼少期に天狗と修行をしていた逸話は海尊だったのでしょうか。
衣川の合戦では山寺に参拝しに行っていたので生き永らえ、その後400年生きたとされる伝説的な家臣です。
各地に、海尊の伝承や墓が残されています。
他にも有名な義経の家臣はまだまだおりますが、この出自もバラバラな個性派ぞろいの彼らを率いるリーダー義経はまるで『麦○○の海賊団』ル○ィのようです⭐
このことから、義経の人柄や才能を見込んで部下が付き従っているので利害のない信頼でつながっています。
戦では身を挺して守る者もいて、義経には忠義を尽くせるような人徳があるということです!
性格悪いと言われた理由
義経の容姿を酷評する書物『平家物語』は平家びいき。
北条家が編纂した『吾妻鏡』は山本兵衛尉義経という人物と義経が混同されている可能性があるようです。
義経は京の貴族たちや西国武士からは人気を得ていましたが、義経の家臣団から見てわかる通り東国武士がおりません。
そもそも義経は、京で生まれ7歳まで一条(藤原)長成と常盤御前の元で不自由なく育ち、その後寺や山で剣術に明け暮れる日々でした。
奥州では源氏の嫡流として秀衡は大事に扱っていたようですし、奥州は京から離れた独立政権であったので関東の情勢など知るすべがなかったのでしょう。
東国武士と義経は当初から嚙み合っていなかったのかもしれません。
頼朝の『貴族社会から独立した東国武士の世』を目指している経緯や『東国武士を従わせる為に戦略を重ねていた』ことを、誰かちゃんと義経に教えてあげる人がいなかったのが不思議でなりません。
まとめ:政治の事はわからないけど
以上のことから、義経の正面からみた人物像は・・・
- 小柄だけど母親ゆずりの色白の美男子
- 必ず成し遂げようとする行動力と精神力
- 人心を掴む型にはまらない自由人
- 無邪気で素直な人
京の公家たち曰く
「義経は智の面においては少し欠けるが、仁と勇の徳は素晴らしい。特に彼の直き心は比類ない」と評価していたようです。
もし義経が関東に生まれていたら、頼朝にとって1番信頼における身内の一人になっていたのかもしれませんね。
自分の子が義経のような人に育ったら嬉しいけどなぁ
【参考資料】
・義経北紀行伝説 平泉篇 著者:山崎 純醒/批評社
【鎌倉殿の13人】源義経が活躍した(ToT)第12回~第22回までを収録!
【鎌倉殿の13人】の菅田将暉くん演じる義経がまさに私の思う義経像と重なり、嬉しかったです★
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